否定者と肯定者

抜き書きとして、故  マックス フリートレンダーMax Jakob Friedlaender (5 July 1867 in Berlin – 11 October 1958 in Amsterdam) の、贋作について語った味わい深い言葉をあげておきたくなりました。

> 欺かれたのは私だけでなく、私の尊敬する先生たちもだった。しかも後になってみると、どうしてだか合点がいかなかった。目は精神が疑問を提出して覚ますまで眠っている。そして、この作品は古いほんものかというその疑問は、その時々に出されるのではない。特に、信用できる商人が良心的な暗示力を発揮し、高い金額を要求しながら品物を出して見せる時には、そういう疑問は提出されないのである。
  .......
 
> 否定者は肯定者よりも程度が高いと自分でも思っているし、また高いようにも見えるから、野心的な人々の間には、ほんものを攻撃して、意地悪い人々に喝采してもらおうという気が起こる。肯定者の方が多くの害毒を流したが、またきびしい否定者より有益でもあった。きびしい否定者が肯定者となったことがない場合には信用がおけないからである。

Source REF 贋作者 商人 専門家, ゼップ・シュラー 関楠生訳 河出書房新社, 1961,

# by reijiyam | 2025-07-13 09:06 | 抜き書き | Comments(0)

矢代幸雄と宮中圖

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矢代幸雄 再説宋模宮中圖  美術研究、第百六十九号、1953年3月、1-6P

から抜き書き


当時(昭和9年ごろ)ロンドンに支那美術大展覧会の計画あり、その委員長であったデヴィッド卿は出品選擇の任務を帯びて世界周遊の途次日本を訪れたが、私は出品畫に就いて相談を受けた時、日本の所蔵品は別として、このフィラデルフィアに在る宮中圖(注1)の重要性について同卿の注意を促し、その解説資料として私の論文(注2)を見せた。それでデヴィッド卿は日本よりの帰途フィラデルフィアへ立ち寄って同畫を見、そのロンドン出陳が決定された次第であった。次いで私も同展示会の委員となって昭和十一年(西紀一九三五)秋ロンドンに出かけたが、
展覧会開催に先立つ或る日、デヴィッド卿は私に急使をよこして、見せたい物があるから 直ぐ来てくれ、といふ。私は何事かと思って訪ねると、いきなり彼が見せたものは、同じ宮中図からの別の断片であった。「かういふ物が出て来た。若し君が同意ならば、私は直ぐこれを買って、展覧会に出陳したいと思ふが」と頗る彼らしき性急さを以つて質問した。私は勿論同意したので、宮中圖はフィラデルフィアの分と二断片相並んで、頗る効果的にロンドンの展覧会に陳列され、一躍世界的に有名になった。

注1 現在、クリーブランド美術館所蔵 
注2 矢代幸雄 宋模宮中圖の新断片  美術研究、第56号、昭和11年8月、1Pー4p
注3 デヴィッド卿が買った宮中圖斷巻は、現在メトロポリタン美術館所蔵(上 イメージ は部分図)

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 私は、先般の渡歐に際して始めて實物に接することが出来たイタリア・ベレンソン氏の斷片に就いて報告して置きたい。本稿に於て、私は客観的にベレンソン氏と呼んでいるが、實は同氏こそ私のイタリア研究に於いて最も尊敬する先生で、私の今日あるは、フィレンチェ郊外の先生の書斎に満四年も勉強させていただいたお蔭に他ならない。先生は八十幾歳の高齢を以つて今尚ほ健在に學者としての晩年の仕事に没頭して居られ、私が昨年イタリアを訪問したのも、老先生にもう一度是非お目にかかりたいためであった。そして、そこで、昨年、私は始めて宮中圖断片を見せていただいたのである。何となれば、私の昔の長い間の先生の書斎通ひは、イタリア研究のためで、その頃レオナルドやボティチェリに夢中になってゐた私は、ベレンソン先生がこんなに高級な支那の古畫を持ってゐられようとは、想像もしなかったからである。
 かくて昨年初めて宮中図断片を拝見した時、私が最もびっくりしたことは、その保存状態の悪さであった。糊の気が抜けて絹が下張りから浮いてしまってゐるばかりでなく、またその絹がまるで弱ってゐて、どこからでも欠け飛んで失はれるといふ有様であった。かういふ危ない状態を補修する表具師は無論歐米には何処にもゐないので、先生の依頼もあって、私はその断片を日本に持ち帰り、東京ですっかり表装を仕直して、先日イタリアに送り返した次第であった。
 然しそのままこの名品を送り返すのはあまりに惜しいので、私は先生の許しを得て、その一部分を原色版複製に作り、この美術研究誌上に発表することにした(上イメージがそのカラー図版そのもの)。


矢代 幸雄(やしろ ゆきお、1890年11月5日 - 1975年5月25日)はバーナード・ベレンソンに学んだ西洋美術史研究者として有名だが、一方では東洋美術の研究論文も多く、後年、近鉄:種田虎雄社長の依頼をうけ、近鉄の事業として、大和文華館の蒐集をやっていて、その初代館長となった人でもある。このベレンソン所蔵「宮中図巻」に関する逸話は、西洋東洋両方に通じ人脈もある矢代幸雄氏の面目躍如という感じがする。また、デヴィッド卿が別の「宮中図巻」断簡を買った逸話には、矢代氏が感じたデヴィッド卿の風貌がよくあらわれていて興味深いものである。ここでいう昭和11年秋の、ロンドンの展覧会は、史上最も大規模な中国美術展覧会といわれた、バーリントン・ハウスでの展覧会である。


# by reijiyam | 2025-06-22 18:42 | 抜き書き | Comments(0)

正倉院の勅封

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東洋美術  正倉院特輯 昭和2年11月25日、飛鳥園、奈良 135p


勅封の事
御蔵を固く閉じ護る勅封は千有余年の間その厳かなることを知らぬ者はないが、その如何なる形状をなすものであるかを知る者は当事者の他甚だ少ない。今漏れ承るところによると天子の御名を署し給う御封紙はその時によって一定しないが、縦一尺二寸横三寸五分程のもので、質は楮紙の如きものである。御親署は御代々によっていろいろであるが、御花押の時もあり、正しく御署名になることもあるという。東山文庫には往代の天子の御封紙を今も存してある。近き頃の天皇の御封紙は何れも宮内省に蔵せられるという。この御封紙を勅使が奉戴し来たり、上を竹の皮で包みその両端をよって、錠の面へピッタリとつけその上を更に麻の紐で幾重にも幾重にも巻き付けるのである。御開封のときは勅使が又之を取り一年間御無事であったことを確かめ、更に博物館総長に之を示し、二人うなづき合うので、その森厳の気は言語の絶して居るという。


 この短いコラムは編集の安藤更生氏の筆だと思うが、無署名であるから、著作権は消滅している。
 勅封について、まともに書いた珍しい記事である。写真があればもっとよかったのだが、みつけていない。確かモノクロの小さな不鮮明な写真をどこか別の雑誌でみたような記憶があるのだが、探し出すことはできなかった。
 ただ、続正倉院  、寧楽、第15冊 續正倉院史論 1932年11月5日
の口絵に勅封の下に使う錠前の絵図があった。ややみにくい図版だが、ないよりはましなので、ここに呈示しておく。


# by reijiyam | 2025-06-18 05:42 | 抜き書き | Comments(0)

李佐賢「書画鑑影」は二種類あった

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現在行方不明の
智永 真草千字文 墨跡である
 龍師起本
についての文献をさぐっているうちに、
ある発見をした。

清時代後期、同治年刊行の李佐賢「書画鑑影」は二種類あったのだ。
貧架にある零本の頁と、ネットでみたHach TRUST ゲッティ イメージのそれ
を比較すれば明白である。左の明るい画像がHach Trustイメージ
「鳥官人皇」となっているのと「龍師火帝」となっているので、明白に違う。

また、部分的に版木を入れ替えたり訂正したりすることもあるだろうから、冒頭の題字を比較してみる。
よく似ているが、よくよくみると明らかに違う。
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 ちょっと考えると、これは、かなりおかしなことだ。こういう鑑賞記録やコレクション目録は、木版印刷されることは少なく、多くは写本で伝わることが多い。すぐれた記録である顧復「平生壮観」や呉其貞「書画記」も長い間写本で伝わっていて印刷本になっていなかった。そのため、閲覧がかなり難しい本だった。近代の高名な満州貴族の収集家:完顔景賢の目録「三虞堂書画目、論書畫詩、碑帖目 」も、北京在住の収集家蘇宗仁が中華民国17年に、本屋がもちこんだ著者名題名すらわからない写本で発見し、活字化して中華民国22年に刊行したのである(注)。
 清朝宮廷の目録「石渠宝笈(せっきょほうきゅう)」も初編はともかく、三篇は写本だけだったので、長い間閲覧困難だった。その用途を考えると、確かに一部あればいいという場合もあり、読者数が少ないということもあり、印刷本にする理由があまり考え難いのだ。「寶絵録」のように、すべて贋作の目録をつくって印刷刊行して宣伝し、それにあわせて贋作をセットで制作して販売するというなら別だ。
 李佐賢「書画鑑影」の木版印刷本が二種類もあるというのはかなりおかしなことである。
 ちなみに、狄平子 所蔵  龍師起本については、、
    有正書局のオーナー平等閣狄平子の所蔵品だったのに墨跡の写真が残っていないのが本当に不思議である。「龍師起」から始まっていて、冒頭が欠落している。 李佐賢「書画鑑影」に著録されているので、清朝時代末期には、北京の親王や満州貴族、あるいは北京の高官のコレクションだったようだ。紫禁城や離宮の清朝宮廷コレクションではない。拓本の写真をみると行立てが違う。国宝 「智永 真草千字文」や、普通いう宋拓「智永 真草千字文」は1行10字だが、これは12字である。

注 鶴田武良、米国現在中国画学書解題、MUSEUM 第379号、1982年10月、ミュージアム出版、東京
  
 

# by reijiyam | 2025-06-17 19:50 | 蔵書 | Comments(0)

楽浪の箱

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楽浪の出土品は、盗掘品ではない、公的機関やNPOが発掘したものも、北朝鮮、ソウル、日本に分蔵されているようである。

そのせいか、また「楽浪」について政治的側面から北朝鮮産の変な説がでたりしているので、政治論争にまきこまれるのを怖れてか、「楽浪」の本は少ない。カラー写真・図版を豊富に使った21世紀の出版物なども、少なくとも日本ではあまりないようである。

 その中でも、「彩筺塚」出土の、この箱の画像の模様は、
久志卓真 「図説 朝鮮美術史」文明商店, 1941.
の装丁に使われただけで、ほとんど知られていない。産地は中国本土たぶん四川だろうから朝鮮美術史というのは、おかしい気がする。輸出中国陶磁器の研究は中国陶磁史にいれるのだから、中国考古美術史の一部だろう。トルコのトプカピ宮殿にあった中国元代陶磁器はトルコ美術であろうか? そんなことはない。中国陶磁を模倣したイズニーク窯の陶器は、トルコ美術であろうが。。
幸い、「楽浪彩筺塚遺物聚英」という稀覯本が国会図書館のデジタルライブラリーにあるので、画像をようやく、ここで紹介することができるようになった。
楽浪彩篋塚遺物聚英  国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902742/1/1

 昭和6年秋、「彩筺塚」の発掘は、「墓泥棒に教えられた」という緊急発掘だった。そのとき発掘しなければどんどん劣化荒廃してしまっていただろうから必須の発掘だったといえる。
その事情を発掘した小泉氏が書いていた。

ちょうどその頃フトしたことから意外なことを耳にした。それはかって楽浪古墳の盗掘盛んなりし頃、盗掘を始めた1古墳から猛烈に水が湧き出し、しかも水の中に大きな木材が横たわっていて、とうとう目的を達することができなかったというのである。この耳よりな話に半信半疑で現地に行ってみると、それは東西23メートル南北二〇メートルばかりの方形の堂々たる古墳で、部落の人々の話のように封土の北端に近く、歴然たる盗掘孔らしい一メートル半ばかりの深さの凹所さえ残されていたのであった。
>Source: 小泉顕夫 朝鮮楽浪古墳を掘る

近年の中国でいえば、「郭店楚簡」が発見された「郭店楚墓」がそうだった。盗掘が発覚したあとの緊急発掘だったのだ。香港に売りに出された「楚簡」もまた、この「郭店楚墓」から盗掘されたものではないか?といわれたものである。

 「彩筺塚」の場合、墓室は地下水に完全に沈んでいて、モーターポンプで排水しなければ発掘できなかったという。また、楽浪古墳の発掘は、

朱や黒の地塗りに美しい色漆の模様を施した各種の漆器、あるいは金銀の覆輪の間に金銀の切金装飾を施した華麗な漆器などが、無残にも破壊されて泥土の中に折り重なり、あるいはバラバラになって散乱しているのであるから、これを丹念に発掘するのは容易の術ではない。これが夾紵(乾漆)の素地のものならまだ扱い易いが、木心の漆器の場合は素地がすっかり腐朽消滅して漆皮の薄い層だけが、幾重にも圧縮されて粘土に埋もれているのであるから、これを傷つけないようにブラシや筆で泥を洗い落としながら配置図に記入し撮影を済ませた上で取り上げ、さらにその下の作業を進めていくのであるから、数十個の漆器の一群にぶっつかると、その部分の発掘だけに一週間や十日くらいはかかるのが普通である。
取材の記者連中が、いつ来ても同じ仕事を繰り返しているので業をにやして、あれは発掘しているのではない、なめているのだと表したということであるが、まさにその通りであった。
>Source: 小泉顕夫 朝鮮楽浪古墳を掘る
というようなものだったらしい。
 そうなると、盗掘者が成功したとしても、1/10も遺物を回収できなかっただろうから、本当に幸運だった。

  東京で、中国からローンされた特別展で、湖北湖南河南などの最近の出土漆器をかなり観ることができた。しかし、それらは大体戦国前漢などの、より古い時代のものである。中国大陸では、後漢時代に墓のつくりかたが変わり漆器の保存には不適当になったようだ。そのため「後漢時代の漆器」の発掘品は少ない。一方、朝鮮半島楽浪郡の墓では、後漢時代の漆器が多量に出土している。これによって、後漢時代の漆器という大陸中心部では出土品が少ない領域をみることができるのである。
 楽浪の漆器の漆画は、湖北湖南などから出たものとくらべてかなり繊細で筆致が細かい感じがする。楽浪の漆器の色彩は保存方法の問題で変色があるのはしょうがないかもしれない。最近の保存方法ではかなり出土時点での色彩を保存しているようだが、昔出土した漆器の黒は茶色っぽくなっているものが多い。

Ref 小泉顕夫、 朝鮮楽浪古墳を掘る、
芸術新潮、 1968年3月号、新潮社、1968
Ref  駒井和愛(こまい かずちか)、 楽浪、中公新書、1972

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# by reijiyam | 2025-06-14 18:36 | ニュースとエッセイ | Comments(0)