武氏祠画像石の祥瑞 【画像訂正スミ】



乾隆丁未に現地嘉祥県の紫雲山でフィールドやっていた
黄易の 修武氏祠堂記略 という文章によると
前室、後室、祥瑞
の3グループに大きくわかれていた。それ以外
には闕という門のようなもの、それに少し離れたところにある2,3の画像石
があった。
 当然、その後出土したものがあると思うが大筋はこうである。
 だから両漢金石記には祥瑞の分の題字の釈文ものっている。 
 かなり 描き直した木版画だが道光年間の「金石索」にも、祥瑞 はのっている。

 ところが、奇妙なのは、破損がひどいとはいえ、 
朱錫録、武氏祠漢画像石、山東美術出版社、1986
に祥瑞グループは収録されていないことである。

  最近、吉祥シンボルの研究などが、一部で盛んになった。その流れで、漢時代の実物資料としてこれをとりあげようとしても、意外に資料が無くて困っていることが多いようだ。林巳奈夫先生の描きおこしの模写本や、「金石索」の不正確に描き直した木版画を使っていることもある。

 題字で残っている部分が意外とあるので、題字だけ
書跡名品叢刊 武氏祠画像石題字  二玄社
に、収録されている。ちなみに、書跡名品叢刊 のなかでこの巻は古書価格がかなり高いようだ。そうはいっても、この本は、祥瑞に限っては図像が影印されていないので、吉祥図像を求める人は困ってしまう。
 手元に不完全ながら原拓があるので、
祥瑞 各種を出してみよう。
比翼鳥については、金石索の木版画を並べてみますね。全然違うでしょう。(しっぽが欠けていたので、訂正)

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比目魚

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玄圭
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璧瑠璃
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木連理は、金石索(下)と全く違いますね。。
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# by reijiyam | 2025-08-11 12:55 | 蔵書 | Comments(0)

国宝  菩薩処胎経


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中村不折、西域出土の寫経について
書エン、第六巻第九号、三省堂、東京、昭和17年9月1日、2p-13pから、抜き書き


明治の初年、清国から楊守敬などが来朝し、六朝の書道を唱道し、中林悟竹、巌谷一六、日下部鳴鶴等が之に和し、大いに後魏の書道を研究したのであるが、これより先、西京の智恩院の徹定和尚が西魏の大統十六年に陶【人+午】虎の書した所胎経をどこからか手に入れた。これは、我國で第一の古寫経として一六、鳴鶴等は智恩院に詣でてこれを見ることを得、これに対して恰も神佛に仕ふる如くであった。故に苟も六朝の書法を研究せんとするものは必ずや所胎経を拝さなければ、その妙を悟ることは出来ぬといった。又所胎経を拝すれば已に身は浄土門に一歩を踏み入れたるものだといふたのである。



 2025年現在では、もっと古い西域出土の写経が複数ある現在、
菩薩処胎経 国宝 知恩院
西魏時代(大統16年) 5帖 紙本墨書
https://www.chion-in.or.jp/highlight/treasure.php

が  国宝指定されているのは不思議に思う人もいるだろう。その事情は、日本で古代から寺院に伝わったという日本文化史との関係もある。少なくとも人の手から手へ伝わって保存された経巻としては最古である。一時は最古の写経として尊重され、明治の書人たちとの関係も深かったためである。その事情をこの短い文章で理解することができる。

 しかも、この菩薩処胎経 のちゃんとしたカラー写真モノクロ写真があまり流布されていないのである。

まして実物を観る機会も少ない。私は 2004年秋、京都国立博物館で開催された「古写経」特別展で始めて観ることができた。
ここにあげたイメージも
「古写経」特別展 図録からとったものである。

# by reijiyam | 2025-08-10 09:03 | 抜き書き | Comments(0)

伊秉綬の臨書

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伊秉綬  臨書屏  59歳 1812年、1月7日(人日)、福建省 寧化の秋水園の小琅玕館に飾った。
四屏一セット のうちの2作 これは、四屏 一セットのものを彫って拓本にとったもの。残りの2屏は不明。

このように掛け軸装の作品を木や石に彫って拓本にするということは、現在までしばしば行われている。伊秉綬 自体が、刻字を注文して邸宅にかけたのかどうかはよくわからない。臨書だから、伊秉綬の書を愛好する人々のために他人が制作した可能性も高い。

魯孝王刻石 五鳳二年刻石
https://reijibook.exblog.jp/28487419/

で、英語での質問があったのを2ヶ月閑却していたので、念のためここに呈示しておく。

ソース:書譜 九期二号、通巻51号  1983


# by reijiyam | 2025-08-09 08:12 | ニュースとエッセイ | Comments(0)

馬王堆のメニュー

 これは、1999年に書いたものです。馬王堆一号墓出土の 献立 リストで、当時の豪華な法事の料理を創造できるわけです。
これ、意外なほど知られていないことに、最近気が付きました。
人民中国の概説も、かなりずさんなものです。
http://www.peoplechina.com.cn/home/second/2010-11/30/content_315532_3.htm

あまりひどいので、26年前の文章(含む 翻訳)をそのまま挙げてみることにしました。
補正、訂正はしていません。やりだすときりがなく、ずっと遅れてしまうことが容易に想像できるからです。
原典:: 湖南省博物館,中国科学院考古研究所編. 長沙馬王堆一号漢墓. 北京: 文物出版社. 1973
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前漢  文帝時代 馬王堆1号墓の竹簡がかなり整然としたお備え用料理
の献立をしめしてますので、チェックしてみました。
各料理法ごとに牛が1品入っている場合が多いようです。
この翻訳というか紹介文は、私の解釈です。
文物出版社1973の2冊本の大きな総合報告をみながら書いてます。
再チェックしていただければ、ありがたいとおもいます。後のほうになると
疲れていいかげんになってる気もしますし。
品数の省略はありませんので全貌をみるという点ではいいかもしれません。


以下は漆鼎や陶器の鼎にいれてあるお汁類

単純なスープ/シチュー9品(牛・羊・鹿・2種の豚・犬・鳬)
米入りスープ/シチュー(雑炊?)7品(牛・鹿と塩魚と筍・鹿と芋・鹿足と小豆)
巾(芹?葵?)味スープ/シチュー3品(犬・雁・魚と蓮根と肉)
逢(ある種の水草ジュンサイ?)入りスープ/シチュー3品(牛・羊・豚)
苦(苦と(ある種のハーブ))味スープ/シチュー2品(牛・犬)


単純なスープ/シチューと訳した誇羹というのは 太羹というのと同じだと思います。
味附けなしだそうで、これはまずそう。



以下は、竹で編んだ箱にいれてありますから、汁気の少ないものです。
魚脂身刺身?1
牛背肉スペアリブ(焼き)1
鹿スペアリブ(焼き)1
鶏スペアリブ(焼き)1

脯(干肉)3品(牛・鹿・牛胃)
炙4品(牛3種・犬・犬肝臓・鹿・豚・鶏)
たぶん干し魚7品
灌(シャブシャブ?)4品(牛・牛胃・豚・鶏)
膾(さしみ)4品(牛・羊・鹿・魚)
肩または裁(料理法不明、長時間煮たものか?)4品(牛・犬2品・豚・羊)
熬(焼き物)11品(豚・兎・野鳥3種・雁・鳬・雉・シャコ・鶏・雀)
卵1箱
火で干す味付け干肉2品(羊・兎)
焼き物?干し肉?内臓?系の不明料理4品(簡番号85ー88)
牛料理1品?(簡番号89)


以下は陶器容器にはいっている。ペースト・液体状のもの
魚塩辛3品
肉味噌1品
雀味噌1品
ナツメ入りご飯1品
鹿塩辛1品
蜜1品
馬肉味噌1品
魚2品
豆鼓1品

塩1
調味料(酢?)2
味噌1
白酒1
温酒2
清酒?2
甘酒2


以下は、竹で編んだ箱にいれてありますから、汁気の少ないものです。
お菓子のようだ。

黍の菓子?絹の袋入り1品
蜜菓子?3品
糖菓子?1
米蜜菓子?2つの絹の袋入り1品
不明1品
米菓子1品絹の袋入り

蜜菓子?1
糖1
麩?1
卵ご飯?1

蒸した穀物
煎った穀物
この2つは箱にはいっているからお菓子の類でいわゆるご飯じゃなさそう。

以下は漆の皿、錫箔張り陶器に盛ったご飯
黄黍4
白黍4
米ご飯4
麦ご飯4

以下は、竹で編んだ箱にいれてあります。果物
ナツメ

李??
梅干し


壷入り
梅とヤマモモ?


筍10


料理に属するのは以上です。簡番号  1ー140まで。


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# by reijiyam | 2025-08-02 05:44 | ニュースとエッセイ | Comments(0)

左元異墓門題記 画像





左元異墓門題記 画像_e0071614_1131771.jpg
カナダ、トロントのロイヤル・オンタリオ博物館は、
中国古美術のコレクションでも結構面白い。

そのなかに、
左元異墓門題記
という後漢  和平元年という年紀のある、割と大きな隷書の石刻文字がある。2本一組である。門や祭祀場の左右にあったものだろうと推測できる。各136.5 x 18.5 x 19 cm
https://collections.rom.on.ca/objects/515870/column-from-the-tomb-of-zuo-biao

Column from the tomb of Zuo Biao
Tomb of Zuo Biao, Mamaozhuang Village, Lishi District, Shanxi Province, China
Date Dated by inscription to 150 AD
Dimensions 136.5 x 18.5 x 19 cm
Object number 925.25.22.O
Credit Line The George Crofts Collection

写真が、なんと上下逆さになっている。漢字が読めない人が、これを編集しているらしい。

 こういう画像石に付属する石刻銘文は少なくないが、小さな隷書が多く、こういう大型の隷書は少ないので、とりあげる意味がある。もっとも望都漢墓題字という大きな墨書の例もあるし、四川の沈府君神道闕もある。

 山西省、離石 で発見された漢の墓というより、墓に付属した地上の祠堂(食堂)の石刻ではないかと思う。多くの画像石も同時に発見されたようで1セットになってロイヤル。オンタリオに収蔵されている。これはもと毛皮商人クロフツのコレクションである。ただ、山西省、離石には、他にも同様な画像石があるようで、カナダに移った分と分離してしまったようである。

 こういう画像石は、墓の内面というより、墓に隣接した祭祀施設、墓参りの施設である祠堂(食堂)の石刻のようだ。

これについては、2007年に1962年の写真をデジタル化しておいたが、
左元異墓門題記
URL https://reijibook.exblog.jp/7217165/
精度がいまいちなので、もう一度デジタル化しようと思う。撮影者が明記されていないので写真著作権は2013年にきれているものだと判断している。なお、ロイヤル・オンタリオのサイトでは画像石の写真はアクセス容易だが、肝心の銘文部分はなかなか出てこなかった。西洋においてカリグラフィーの伝統が無いわけではないが、文字部分は記録であって芸術ではないという考え方がうかがれるのは感心しない。

 出土から海外流出までの時間が短かったせいか、中国では拓本がほとんど制作されておらず、紹介が遅れていたようだ。

この石刻文字の所在については、著名な碑帖研究家:故:王壮弘氏の崇善楼筆記付属の歴代外流石刻も所在を「英国のロンドン博物館」と間違っている。中国人専門家による中国古美術の記述でも、ときどき間違うことは少なくない。その良い例である。盲信することは危険である。
正誤表を書いておいた。
崇善楼筆記の海外流出石刻 正誤表
https://reijibook.exblog.jp/28470619/

左元異墓門題記 画像_e0071614_16400306.jpg
左元異墓門題記 画像_e0071614_16413031.jpg
左元異墓門題記 画像_e0071614_16411477.jpg
左元異墓門題記 画像_e0071614_16410068.jpg
左元異墓門題記 画像_e0071614_16403960.jpg



PHOTO Source
Some Fragments from a Han Tomb in the Northwestern Relief Style. Artibus Asiae, Vol 25, pp.149-162, 1962




# by reijiyam | 2025-07-20 16:50 | 蔵書 | Comments(0)