玲児の蔵書:ニュースとエッセイ
2024-01-23T14:33:13+09:00
reijiyam
古美術と書道史などの話題と日々の思いつきを紹介します。イメージをCLICKしてください。拡大表示します。
Excite Blog
宋拓魅力 碑帖珍本特展 の日本未公開作品解説
http://reijibook.exblog.jp/30720385/
2024-01-21T09:07:00+09:00
2024-01-23T14:33:13+09:00
2024-01-21T09:07:20+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
「宋拓魅力──碑帖珍本特展」
という展覧会があった。香港中文大学の北山堂コレクションと、北京故宮の所蔵品をあわせた充実した展覧会だったようである。
便利なURL紹介は、書学書道史学会の頁にあった。
http://shogaku-shodoushi.org/?p=2240
このリストの中で、日本未公開のもので、重要なものについて、少しコメントしてみたい。
西嶽華山廟碑 冊 順徳本 (香港)
西嶽華山廟碑 冊 華陰本 (北京)
壁に 西嶽華山廟碑 の大きな全形拓本がパネルディスプレイされていたが、あれは「四明本」というもので、北京故宮所蔵であるが、今回は展示されていない。前、日本で展示されたことがある。あるいは、北京故宮の他のギャラリーにかけてあったのかもしれない。
漢 夏承碑(香港) これは、書道博物館に貸し出される予定だったのだが、東日本大震災で中止になった。この拓本には色々問題がある。
2020年11月27日 北山堂 夏承碑は真賞斎旧蔵なのか
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188162783.html
魏 廬江太守范式碑 冊(北京)は、現在でもたぶん原石はあるし原石拓本もそう高くもないのに、動画や宣伝にもなにかとでるがどこがいいのか?と思うかもしれないが、魏の時代の碑としては書法的に優れている。また乾隆時代の学者 黄易が秘蔵した拓本の一つで最旧である。という意味で尊重されている。
唐 孔子廟堂碑 西廟堂本冊(北京)
これは、説明しないとなにがなんだかわからない。まず 西廟堂本というのは何? 虞世南の孔子廟堂碑 原石は唐時代早くすでになくなっていておそらく重刻(拓本からの複製)された。宋時代の重刻(複製)らしい石が二種類近年まで伝わってきた。宋時代の重刻で
あるのだから、これは既に二回重刻されたものということになる。唐時代の拓本とされるのは、日本の三井文庫にある一冊のしかも一部分だけである。しかも原石拓本かどうかすらわからない。
西のほうの陜西省 にある重刻の石を(西廟堂本)とも陜西本とも呼ぶ。三井文庫にある一冊もかなりの部分が陜西本で補われている。この事情については翁方綱の考証に従うことにする。
東の方山東省城武県にある重刻の石を東廟堂本または城武本と呼ぶ。
さて、今回展示された拓本冊は 明時代の庫装(宮廷での装丁)といわれる古いゆゆしい伝来のもので、大正ごろに、上海有正書局から影印本がでていた(中華民国5年第5版を閲覧)が、あまり良い影印とはいえないものだった。もう少し良い写真がほしいものである。
唐九成宮醴泉銘 冊 李祺本 (北京)
こちらも日本に来たことはない。
九成宮醴泉銘は陝西省西安の西北に、原石があることはあるのだが、すっかりすり減ってしまっている上に何度も文字をはっきりさせようと加工が行われたため、ほとんど原形をとどめていないという惨状になっている。
従って、書を習う手本、書の鑑賞という意味では、現在の原石拓本にはほとんど意味はない。まだすり減っていない古い時代に、しかもできるだけ精密に制作した拓本が望まれるわけである。そういう需要が高かったので、そういう拓本はいよいよ高価になり稀少になってしまった。
それでも、虞世南の孔子廟堂碑 のように原石拓本がほとんど無くなってしまった事情よりはまだマシである。
この北京故宮の拓本冊は、最も古く精密という評判が高いもので、二〇世紀後半に影印本が刊行されたときには、書道界にかなり騒ぎをおこしたものである。
その理由は、
・九成宮醴泉銘 が楷書の手本として広く使われていた。
・従来 高く評価されていた拓本は三井文庫の「端方旧蔵本」またの名を「海内第一本」であった。
という背景があった。そのため
・「端方旧蔵本」とこの「李祺本」ではかなり印象が違うので、九成宮醴泉銘の真の姿はどちらなのか?
という論争対立が起きた。
現在は、「端方旧蔵本」とこの「李祺本」の差は、拓本の技術・修理などの保存状態、使った紙などの違いなど様々な問題が考えられていて、単純に一方が良いとはいえないという複雑な問題になっているようだ。
私としては、むしろ両者の中間のようにみえる三井文庫の別本「李鴻裔 本」を愛好している。
この展覧会ででているもう一冊の九成宮醴泉銘 冊は、たぶん香港にあり、東京国立博物館の「顔真卿展」に貸し出されたものだと思うので、日本に来ている。鑑賞したが、「端方旧蔵本」に近いものだった。
第2室 淳化閣帖などの法帖
これでは
淳化閣帖泉州本冊 (香港) が未だ来日してないものの中では重要だ。
この名前では、全く知らないという人だらけだろうけれど、実は
昔から影印本があった
「宋拓王右軍書」がこれで、名前が変わったのである。いろいろな研究の末こうなったのだ。「宋拓王右軍書」は、上海の商務印書館で1918年初版その後8版以上版を重ね好評だったものなので、かなり普及した影印本である。ただ、版によって多少印刷の精度に差がある。
宇野雪村氏の「法帖」では、の原本の断片集成かといわんばかりの誉め方をしていたものだ。
十七帖冊(孔氏嶽雪楼本)(香港)は三井本(行方不明)とよく似ているというので近年 話題を呼び澤田先生の細かい研究もある。
第3室 蘭亭
日本で公開されていないもののなかでは
御府本(甲之五) (香港)が重要だろう。
これは、蘭亭の諸系統やテキストについての微妙な問題のカギになりえるという意味で、面白いものである。
游相本御府領字従山本蘭亭序を巡って (J-stageサイトの論文)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shogakushodoshi/2021/31/2021_43/_pdf/-char/ja
]]>
古銅印と印譜と金印
http://reijibook.exblog.jp/30670803/
2024-01-12T06:55:00+09:00
2024-01-12T07:21:19+09:00
2024-01-12T06:55:07+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
魏の金印:甘粛省博物館 (当方 撮影)
穆如清風室古官印
先秦秦漢古銅印といっても、実際は三国時代晋時代ぐらいまでの封泥に押すことを前提とした方寸の古銅印もまたそのカテゴリーにいれていた。
隋唐ごろから、紙に押すことを前提として、印の制度が大きく変わり、印が大型化し、印綬として官僚が身につけるものではなくなった。
清朝の大型の官印をみると、とてもリボンを通して身につけることなどできないのは明白であろう。
逆に、隋唐より前、南北朝時代の古銅印はむしろ漢時代の印に近いわけで、印譜では、そういうものも秦漢古銅印として収録してしまっていることが多い。
勿論、先秦秦漢古銅印でも、大型の印はあるが、それは焼き印や陶磁器に押すための印など特殊な用途のものである。
したがって、古銅印印譜というと、先秦秦漢と、まあ魏晋そして南北朝時代前期ぐらいまでの古銅印を主とするものである。ただ、印譜にするときは、上イメージのように、朱肉・印泥をつけて押すのが通例で、封泥にするわけではない。封泥につくって写真とったりするようになるのは20世紀になってからである。
ところが日本では、ちょっと別の銅印収集分野がある。それが「糸印」の収集である。「糸印」というのは室町ぐらいから江戸前期の日明貿易にともなって輸入されたつまみ(チュウ)が動物の形などのおもしろい形をした銅印である。主として貿易船が航海した当時の明時代後期の作品だとされる。生糸貿易に伴って多量に輸入されたので「糸印」と呼ばれたのだろう。印面の文字はよく読めなかったり、意味不明の模様やパスパ文字類似の文字だったりしているものだ。根付けとして愛好されたり、いろいろな形のものを収集したりする対象となった。
この「糸印」、日本の骨董業界ではよく知られているもので、まあマイナーな収集の一分野になっている。多量にあるせいか基本的には価格も安い。
従って、古銅印というと、秦漢古銅印ではなく、この「糸印」を連想する日本人も少なくないので混乱が起きやすいことを注意しておきたい。
「糸印」の印面の文字はムチャクチャなので、篆刻家には全く尊重されないが、この混同のために話が通じなくなることがある。「糸印」だけの印譜を作った人もいるようだが、ここでは、先秦秦漢古銅印のことに限る。
古銅印印譜というと「銅」製のものだけだと思いがちだが、実際に
印譜をひもとくと、金・銀・鉛・玉・滑石・骨・陶印まで入っていたりする。これでは名称が間違っているのではないか、と思うのも無理はない。
だから、国宝の志賀島の金印もカテゴリーとしては「古銅印」にはいってしまうのである。数的には90%以上大部分が青銅印なのだから、まあそういう慣用のカテゴリー分けだと納得してもらうほかない。古璽印譜のほうが名称としてはいいと思うが、古銅印印譜のほうが一般的につかわれているようだ。
宇宙物理学で恒星の成分のことをいうとき「水素とヘリウム以外」を「金属」と呼ぶのは、どこから出た慣習なのかわからないが、ひどく不適当な呼び方であるが、未だに続いているようなものだろう。
古銅印印譜に採用されてる古銅印の定義というか範囲は、以上のようなものである。
興味深いことに、古銅印収集は、日本の文化財収集古美術収集のメインストリームではない。
例えば、東京国立博物館の東洋館が開館したときの総目録をみると、銅印もかなり入っているが先秦秦漢古銅印とみるべきものは多くないし、時代も注記されず、ひどいのになると[美濃土岐役元]なる文字が印面になっている銅印がリストに入っている。なんだこれは。。。
封泥の大コレクションはあるが、これは関西の阿部房次郎氏が購入して当時の帝室博物館に寄贈したものである。寄贈以後、ごく一部、数点をのぞき70年以上公開されず、1999年初めに封泥 の企画展が開催され図録も作られた。
一方、本格的な日本の先秦秦漢古銅印コレクションは、関西に多い。
・京都の藤井有鄰館
・大谷大学コレクション これは旧羅振玉コレクション
・奈良の依水園:寧楽美術館
・和泉市久保惣記念美術館の旧園田湖城コレクション
・これは東北だが、盛岡の岩手県美術館:旧 太田孝太郎コレクション
いずれも、昭和前半に形成されたものである。
そして、興味深いことは、日本に輸入された時点は、江戸期どころか明治時代にさえ遡らない。
この点、中国書画とも全く違っている。
また、東京国立博物館、根津美術館、白鶴美術館などの青銅器の有名コレクション有名博物館の名前が全く出てこないのに奇異な思いをもった人もいるのではなかろうか?
こういう博物館にも、古銅印が全く無いというわけではないが、大コレクションは無い。
つまり、鑑賞・収集していた人々・サークルが違っていた、ということである。
国宝 金印 贋作疑惑のしょうもない議論のときに、贋作疑惑を提起している人々に、秦漢古銅印収集の日本における歴史や現状に知識が無いことに気がついた。江戸時代には秦漢の古銅印の実物は贋作者も学者もまず見ることはできなかった。ひょっとしたら、大変な好事家であった近衛家煕もいた近衛家の陽明文庫にはあったかもしれない。その事情を歴史的に概観すると次のとおりである。
・天明4年(1784年) 金印 志賀島で発見
・天明5年(1785年):
「印聖」と呼ばれ好事家でもあった篆刻家:髙芙蓉の、天明5年の芙蓉山房私印譜は、東京国立博物館デジタルライブラリーで閲覧することができる。その末尾に収集した中国古印を収録している。その全てが漢時代のものではないどころか、ずっと新しい明時代の糸印まで混じっている。
このようなものしかなくて、よくあれだけちゃんとした篆刻制作ができたものだ。実物の印ではなく、中国渡りの印譜を参考にしたのだろう。
・天明5年(1785年):紀州藩士の「井田敬之」が著した「後漢金印図章」という著作が天明5年に刊行されている。その序文冒頭(漢文)を翻訳してみる。当時秦漢古銅印などみることができず、印譜で研究していたことがわかる。
「私は若い頃から印癖があった。宋元明清諸家の説を極力学んだ。1印譜を得る毎に、印譜をうやうやしくひもとくことは、古人と堂上で対談しているような気持ちであり、睡眠や食事を忘れて熱中した。しかし、未だに本物の古印を見ることができないのを、常々 残念に思っていた。天明甲辰仲春23日、、以下略」
・明治15年: 明治初期でも、秦漢古銅印は、ほとんど輸入されていなかった。なぜなら、1880年、楊守敬が日本の知識人書家に拓本古印などを売ったときに、楊氏家蔵銅印譜という印譜も作成している。
これには、確かに真正な漢時代の銅印も含まれているが、あまり感心しない鑑賞価値の低い印ばかりである。こういうものでも当時の日本人は珍重し喜んで購入したのであろう。この銅印は、その後 郷・純三男:松石山房に帰したが関東大震災で失われたという。
1910年ごろ:
京大の大物学者・京都国立博物館館長:神田喜一郎博士の話では、
>神田喜一郎「京都に本当に一体秦漢の印などの実物のきたのは山田永年さんの漢騎都尉印ですな。」ref.
ref. 京都国立博物館編輯、篆刻家 園田湖城、平成23年
山田永年(1844-1913)
1910年ごろ:
園田湖城先生「大正初年にある人が新しく渡来した中国古印を2つか3つばかり手に入れたとの話をきいて、頭を下げて見せてもらいにいったが、持主が威張り帰っていて屈辱を憶えた」
この持主:山田永年かもしれない。
だから、古銅印研究・収集やってた人々、たとえば太田孝太郎氏は真物説であり、
そうでない文献学者の
三浦佑之氏などは贋作説に傾くのである。
なお現在、日本には、古代の金印は、他に少なくとも2点ある。京都の藤井有鄰館にある魏の「崇徳侯印」「関中侯印」である。藤井有鄰館は、日本最大の中国古銅印のコレクションをもつ博物館である。この金印もたぶん大正時代の購入だろう。
]]>
陳介祺の書画コレクション
http://reijibook.exblog.jp/30531389/
2023-12-19T03:28:00+09:00
2023-12-19T17:11:16+09:00
2023-12-19T03:28:45+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
喬松平遠図 澄懐堂文庫
には 次の題簽がついているそうです(ref1)。
宋李營邱喬松平遠圖
怡邸明善堂藏眞本
西泉庚辰得于京師海王村
ホ(竹+甫+皿)齋審定竝題
「ホ(竹+甫+皿)齋」(朱文長方印)
[
[怡邸明善堂]ってのは、清朝皇族の怡親王邸宅のこと。
「海王村」というのは北京の古書店骨董街である瑠璃厰のこと。
「王西泉」は、篆刻家 王石経のこと。「庚辰」は1880年です。
「ホ(竹+甫+皿)齋」は山東の青銅器・考古品の大蒐集家 陳 介祺(ちん かいき、Chen Jieqi、1813年 - 1884年)のこと。毛公鼎ももっていた人です。 陳介祺の著書が印刷されたのが中華民国時代だったのが多かったせいか、「民国の陳介祺」とか呼ばれてまちがわれていることが多いんですが、1884年逝去ですからね。完全な間違いです。
王石経は陳介祺の印を彫っていますので、おそらく地方都市にひっこんで陳介祺のために、代理人として買い付けなども行っていたのだろうと思います。
陳 介祺の手紙集(ref2)のなかに呉雲(1811-1883)への手紙も何通もあるのですが、
同治11年9月4日の長い手紙の中に、自蔵の書画をリストして自慢しています。いうまでもなく、喬松平遠図は入っていません。これを買う何年も前のリストですからね。
これみると、意外と日本にきているものが多いんですね。
そのリストを転記してみます。
************
唐王維伏生授経図巻 大阪市立美術館 旧阿部コレクション
宋李唐小江南春巻
文与可竹三(一無款)(極思得東坡、仲圭、禹玉竹)
宋元執扇集錦。
朱文公札巻。(真跡)
黄山谷書巻。(伏波神祠詩巻)
馬和之畫毛詩、(高宗書)
元 王叔明楽志論巻、天香深処巻 夏山高隠軸
趙蘭倪竹合巻
雲林小景 二軸
方方壷江山秋興巻
趙松雪馬軸
*************
わかる範囲で各作品を追ってみます。
唐王維伏生授経図巻は、大阪市立美術館 旧阿部コレクション
宋元執扇集錦
ってのは、
名画集冊という名前で李佐賢の「書画鑑影」巻十にのっているものじゃないか?
名賢寶絵集冊という名前で李佐賢の「書画鑑影」巻十二にのっているものじゃないか?
よくわかりません。。どちらも「陳寿卿」所蔵と記載されています。
黄山谷 伏波神祠詩巻は、 永青文庫にあります。今回 北宋書画精華展にもでてました。
馬和之畫毛詩、(高宗書) これは複数あるこの手の絵巻のなかで最優とされるもので、 藤井斉成会有りん館 にあります。
王蒙の「天香深処」 という画題の絵は複数遺っていますが、天香深処「巻」なので、巻子です。
近年 クリスティーズで売り立てられたこれが 箱に 陳氏の銘文があるそうなので、該当物件だと思います。
王蒙 天香深処
https://www.christies.com/zh/lot/lot-6112128
2016年 クリティーズ
一方、日本で昭和初期から知られていた「王蒙の 天香深処図」は縦長の掛け軸で、もと斎藤董庵のものだったので図録にも掲載されていてため知られていたようです。
2018年 NY サザビーズででてました。
https://www.sothebys.com/zh/auctions/ecatalogue/2018/fine-chinese-paintings-and-calligraphy-n09907/lot.607.html
Stephen Junkunc, III (d. 1978) 旧蔵
2点とも、それほど良いものにはみえません。
王蒙の 夏山高隠軸 はおそらく、現在、北京故宮博物院にある軸でしょう。
https://minghuaji.dpm.org.cn/paint/detail?id=7cf073857d4e46c89b499b19c99a0115
ただ、そっくりの軸が、もう一つ、張大千寄贈というもので、台北 国立故宮博物院にもあります。
贋作者としての張大千を考えると、どうも信用がおちるので、あまり展示されないようです。
でも、そうとう精緻な絵ですね。
https://digitalarchive.npm.gov.tw/Painting/Content?pid=19382&Dept=P
趙蘭倪竹合巻ってのは、
趙文敏倪高士合巻という名前で李佐賢の「書画鑑影」にのっているものですね。
李佐賢の「書画鑑影」は、道光同治時代の貴族富豪の収集を記録したもののようです。
李佐賢は陳介祺と同じ山東省出身ですし、古代貨幣蒐集もやっていて研究書もありますから、陳介祺と交友あったみたいですね。「書画鑑影」にも「陳寿卿」所蔵と記載されているものがあります。
Ref1. 關西九館所藏 中國書畫録I、関西中国書画コレクション研究会 2013
https://kancol.jp/img/file4.pdf
REF2, 秦前文字之語、 斉魯書社、1991
]]>
喬松平遠図のサイン
http://reijibook.exblog.jp/30499139/
2023-11-26T09:14:00+09:00
2023-11-26T09:17:38+09:00
2023-11-26T09:14:12+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
北宋書画精華 展で、わりと良かった喬松平遠図(澄懐堂美術館)だが、宣伝動画で「李成という落款がある」と名言していたし、図録解説にも「左下に李成の偽款がある」と書いてあったので、本当にあるのかどうか疑問に思って
大和文華館 宋代の絵画 特別展 のときに購入した大きな ポスターを細かくみたが、、
見つから無い。
よほど小さくて紛れているのか? それなら范寛の谿山行旅図のサイン(下イメージ)のような隠し落款でかえって本物くさいな。あるいは落款といっても小さな印影でよく読めないのではないか?? と思った。
一応、ポスターから作成した左下の部分画像を上にあげておく。
絵の実物自体は汚れや補修も多いが、郭煕風の描き方が目立つなかなかの佳作だと思う。
前は元?と思っていたが、今回みると宋でよさそうだ。宋の絵画というと残存が少ないので、どうしても小品を拾い集めるような感じになるのだが、当時だって大作は多かったはずだ。ただ避難が難しく残っていないだけである。
范寛の谿山行旅図 初め台北には大きな宋画がいくらか残っているのだから。
]]>
北斗七星の破軍星
http://reijibook.exblog.jp/30424531/
2023-08-23T07:39:00+09:00
2023-08-23T07:51:57+09:00
2023-08-23T07:39:48+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
北斗七星の破軍星にあるところで触れたが「破軍」という単語は色んなところで使われているようで、
北方謙三「破軍の星」なんていう北畠顕家を主人公にした小説のタイトルにもなっている。
その北斗七星の東アジアでの古い図像としては、山東省武氏祠(武粱祠)石室画像石 後石室第四石 の画像がある。これ、たまに本でみるが厳密に石室のどこにあるかを明記したものは皆無に近いので、ここで明記しておくことは意味があるだろう。画像は、
朱錫禄編『武氏祠漢画像石』(山東美術出版 1986)
<から、とった。
次に、
甘氏星経 甘徳(かん とく、紀元前4世紀頃)中国・戦国時代の天文学者。斉の人。
漢魏叢書 ::王謨 輯 ::同治十二年至光緒三年五月 馬湖廬秉鈞紅杏山房 重校刻
ただ、 これでは、「破軍星」じゃないんだよね。別の名前「瑤光」になっている。史記「天官書」なんかもそうなので
古代は、「破軍」じゃなかったようだ。
どうも唐時代には「破軍」がでてくるので、南北朝時代に変わったのだろうか??
最後に鎌倉時代 建長年間の星供養の古文書の一部、このころは「破軍」になってる。
]]>
細密画の東と西
http://reijibook.exblog.jp/30396628/
2023-07-22T07:34:00+09:00
2023-07-22T07:46:42+09:00
2023-07-22T07:34:35+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
(上イメージは jan van eyk 研究サイトCloser to Van Eyckhttp://closertovaneyck.kikirpa.be/から,当方が自作)
元木幸一 ,西洋絵画の巨匠12 ファン・エイク
https://www.shogakukan.co.jp/books/09675112
の、素晴らしい写真図版で気がついたのだが
ロランの聖母子
の背景の橋の上に多数の人間が描かれていることを知った(上イメージ)。
実は、この絵はルーブルで仔細に鑑賞したつもりだったのだが、気がついていなかった。
こういうのは写真のほうがよくみることができることもある、という証拠でもある。
勿論「偽物のほうが写真ではよくみえる」という不思議な現象もあるのだが。。
この微細な群衆の描写ですぐに思い出したのが、
南宋時代の伝張擇端「金明地争標図」(天津芸術博物館)だろう。金明池でのドラゴンボートの行事を描いている。しかし、28.5x28.6cmの大きさの絹に1000人以上(100人じゃありません)の微小な人物を描いている。この辺の細密具合は、ヤン・ファン・エイク と東西で双璧といっていいだろう。
]]>
王羲之の楷書
http://reijibook.exblog.jp/30326669/
2023-05-21T12:08:00+09:00
2023-05-21T12:57:21+09:00
2023-05-21T12:08:58+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
十七帖の一部に行書がかった楷書がある。これが王羲之の楷書を推察するカギの一つになるかもしれない。(上左イメージ)。
王羲之の楷書として、現在に伝わっているものは、楽毅論、黄庭経、東方朔画讃などがあるが、何れも小さな楷書のせいか良質な模写本は一点も伝わっておらず、拓本で伝わっているものも再三模写と刻を繰り返したせいか、東晋の書とはとても思えないように平板になっていることは、良く知られている。孝女曹蛾碑では、かなり古い模写本が遼寧省博物館にありコロタイプ模写を刊行されているが、そもそもこれは、王羲之の書写であるという証拠が何も無く、たまに王羲之書だと考えられては反駁されていたものである。
一方、呉簡などの出土資料によって、当時、楷書が存在したことは明らかになっているし、当時の官吏が日用に使っていた書風は、三十年前よりずっとよくわかって来た。
そうなると、魏晋南北朝時代前半の書風の中で、王羲之の個人書風の楷書とは何であったか?ということが知りたくなる。
十七帖の草書は、楼蘭出土の残紙に書いてある草書にも近く、かなり王羲之の書風を残していることは、100年前、戦前から言われて来たことである。とすれば、十七帖の一部であるこの「青李 帖」の行楷書も王羲之の書風を残しているだろう。それに青李帖は、法書要録に収録されている十七帖の一部であり、唐時代後期にあった模写本十七帖にも入っていた由緒ある作品である。
この書風はかなり異風でゴツゴツしているが、かろうじて残っている良質の模写本をみても、喪乱帖などの草書の見事さに比べて、行書を主とする平安何如奉橘帖巻子(台北 國立故宮博物院)の一部にある楷書っぽい部分は、かなりぎこちない感じがある。
台東区書道博物館にある後秦 甘露元年(ACE359)の譬喩経(上イメージ右)と比較する。ACE359年には、王羲之は50代であった。つまり同時代の作品である。かなり似たところがある。
法書要録に収録されている張懐カン「書の値段」によると、王羲之の楷書は草書の15倍の値段に評価されている。手本としての実用性とともに、圧倒的に少なかった希少だったということだろう。孫過庭は「書譜」で、黄庭経、東方朔画讃、楽毅論をとりあげているが、当時習うことができたのは、拓本か模本であったと思われる。
奈良・平安時代の記録に、宮廷の図書として、画讃、楽毅論があげられており、光明皇后が臨書した実物まで現存しているぐらいだから、当時までは、模写本の王羲之楷書が存在していたのだろうとは思う。
]]>
ルシファーではない
http://reijibook.exblog.jp/30308447/
2023-04-29T06:11:00+09:00
2023-04-30T07:18:00+09:00
2023-04-29T06:11:12+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
イーゼンハイム祭壇画の一部の解説ですが、、、
恐ろしい病〈麦角病)と救いの絵【イーゼンハイム祭壇画】後編
https://youtu.be/bFxPkrriPDI?t=677
で、この緑/青黒い天使(上イメージは部分拡大)がルシフェルであるという説が定説であるかのように語っています。
イーゼンハイム祭壇画 天使の合奏と聖誕
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Isenheim_Altarpiece_-_Concert_of_Angels_and_Nativity
大杉 千尋、イーゼンハイム祭壇画〉研究によれば、三章一節で、メリンコフ(1988)によって「孔雀の羽根をもつルシフェル」だという推論があったことを引用しています。「孔雀」が傲慢の象徴だから、これがルシフェルだという論だそうです。
>それを孔雀の羽をもったルシフェルだと考えた。孔雀は伝統的に7つの大罪の「傲慢」と結びつけられ、デューラーの≪アダムとエヴァ≫をはじめ、多くの楽園の蛇にも孔雀の冠羽が描かれていることを示した。
>彼女はまた、この天使だけが右側の聖母子から視線を外していることを指摘し、この天使だけが救世主の誕生を認識していないと考えた。
MELLINKOFF, R., The Devil at Isenheim. Reflections of popular Belief in Grunewald's Altarpiece,
Berkeley/Los Angeles/London,
1988.
原典読んだわけではないのですが、Los angels Timesの解説なども参照しました。
この議論:果たして正しいのでしょうか? 天使というと美男美女か愛くるしい子供を連想しますが、古い図像や文献記述だと、必ずしもそうではない。むしろ非人間的な超越的怪物的な図像も多いですね。例えば、十五世紀イタリアのヴィスコンティ時祷書の一部のセラフィム(熾天使:最上位の天使)はこれらです。これでは、全身羽毛や羽根でもどうてことはないでしょう。
よくよく観察すると、イーゼンハイム祭壇画の天使の孔雀の羽根はまなじりから頭頂へ一列に鶏冠(とさか)のように生えているだけで、他の部分は孔雀の羽ではありません(上イメージ)。
そして、デューラーの≪アダムとエヴァ≫ですが、版画のものにそれらしいものがあるだけです。実はデューラーの版画では、孔雀の羽根かどうかさえ判断できません。なんか、タンポポみたいにみえますね。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Albrecht_D%C3%BCrer,_Adam_and_Eve,_1504,_Engraving.jpg
版画は複数残ってますから、他の刷りのものも参照しましたが、同じです。
そして、プラドのデューラーの油彩画の≪アダムとエヴァ≫の蛇には、こういうトサカはありません。
https://www.museodelprado.es/en/the-collection/art-work/eve/930c0fdf-fcfc-47df-b216-e375f5719084
また、クラナッハの多数のイブの蛇にもありませんね。
更に問題なのが、ロヒール・ファン・デア・ワイデンのボーヌの祭壇画の中心:大天使ミカエルの羽は孔雀の羽であることです(下イメージ)。メムリンクの「最後の審判」(グダニスク)でもそうですね。大天使ミカエルが堕天使のはずもないから、「孔雀の羽」=「堕天使」という推論も誤りでしょう。
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Details_of_Polyptyque_du_Jugement_dernier
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Polyptyque_du_jugement_dernier_roger_van_der_Weyden_Beaune.jpg?uselang=ja
エンゲルベール二世の時祷書(Oxford Bodleian Library)のfolio97vの受胎告知の背景も大きな孔雀の羽模様なんですが、どうみても悪魔じゃないですよね。またカルロ・クリベッリの受胎告知(London NG)にでてくる孔雀も悪魔なんでしょうか?
次に
>この天使だけが右側の聖母子から視線を外している
というのは完全な嘘ですね。手前から二番目の赤い服の天使は明らかに聖母子のほうをみていません。
この緑色の天使はおそらくセラフィムかケルビムとして描かれたものでしょう。
]]>
ずんだもんと学ぶ 蘭亭偽作説
http://reijibook.exblog.jp/30297605/
2023-04-16T08:31:00+09:00
2023-04-16T11:56:03+09:00
2023-04-16T08:31:55+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
使用上の注意*****これは、年月場所想定人物に多少フィクションが混じっております。*****
*舞台:1835年 北京 宜南(地方からでてきた文人・受験生・官僚たちの宿舎が多く、交際場所だった) :
ずんだもん> さあ、習字をやるのだ。やはり蘭亭序を習字するのは最高なのだ。なにしろ最初の1字「永」に8つの技法がこめられているのだ。
召使い>阮元先生がおこしになりました。
ずんだもん>まずいのだ。先生が田舎の赴任先から戻ってきたのに、まだ挨拶にもいってないのだ。とにかくご機嫌をとるのだ。。
先生>ずんだもん、久しぶりだな。雲南から戻ったぞ。
ずんだもん>ははあ、先生におかれましては、ご健勝なによりでございます。
先生>お、習字やっとるな、感心感心。う? 蘭亭序やっとるのか? これは偽物じゃぞ。
ずんだもん>え、でも、大先輩の翁方綱先生は絶賛されておられましたが?
先生>それは、もう古い。雲南で 王羲之とほぼ同じ時代の石碑が発見されたのじゃ。それは、こんな書体の字じゃ。ほら蘭亭序とは全く違うじゃろう。 ずんだもん>ははー。
*先生 帰る。
ずんだもん>挨拶に行かなかったのを忘れててくれたようで助かったのだ。それにしても蘭亭序が偽物だとは驚いたのだ。
友達>ずんだもんさん、お習字ですか。
ずんだもん>もう蘭亭序はやめなのだ。これは偽物なのだ、、
友達>なんですか、それは。急に言い出すなんて。
ずんだもん>先生が教えてくれたのだ。
友達>え、こんど大臣になるとかいうあの先生が? ずんだもんさん、その話ヨイショすれば、出世できますよ。
*友達 帰る
ずんだもん>どうやってヨイショしよう。あの先生大学者だから、たいていのことは知ってるのだ。下手なこというとバカにされておしまいなのだ。
骨董屋> ずんだもんさん。新しく掘り出された王羲之時代の文字のあるレンガあるんですが、買いませんかあ。。下手っぴいな文字なんで安くしますぜえ。 ずんだもん>え、ひょっとしたらこれで、ご機嫌とれるかもしれないのだ。
*先生の邸宅
ずんだもん>先生、大発見なのだ。これこれしかじか。
先生>ずんだもん、よくやった。おまえXXだと思っていたがなかなかやるな。
*舞台:広州 1885年
ずんだもん>新任の張之洞長官は気前がよいのだ。毎日、ずんだもんにお菓子をくれるのだ。ときどきお小遣いまでくれるのだ。
客>ずんだもんさん、取り次ぎお願いしまーす。あの、もと大富豪の潘家の親戚が、長官に名品をおみせしたいと、お伝えくださーい。
ずんだもん>はーい
*数日後
ずんだもん>長官がおかしいのだ。僕にお菓子もおこずかいもくれなくなった。なんか暗い顔でぶつぶつ金勘定やってるのだ。どういうわけなのだ?
同僚> ううん、長官の幕僚・側近で長官より年長の李文田先生にきいてみたら、どうでしょうね。
李文田>ひょっとしたら、売り込まれた潘家の宝物がむちゃくちゃ高いので買うかどうか迷っているのかもしれん。蘭亭なんか偽物なのに。。
*長官公邸
長官>これは,李先生、おこしいただいて恐縮です。実はあの海山仙館・潘家の遠縁から、この蘭亭序10種セットを買ってほしいという話がありましてな。なにせ高価なものですし、こういうことに詳しい李文田先生の御鑑定を仰ぎたいと思いまして。
李文田>
王羲之から約100年後に書かれた文章の中に「王羲之の臨河叙」というのがあります。これは、蘭亭序の半分しかないし、最後は違っています。これが原形で、今の蘭亭序は、臨河序をもとにした偽作なのではないでしょうか。
また、先の宣宗皇帝陛下(道光帝)の内閣大学士で大学者の阮元先生も王羲之の時代の書体は雲南の碑に似たものであり、今の蘭亭の書体とは違うとおっしゃられておられました。
長官ともあろうかたが、玩物喪志に陥ってはいけません。
*舞台:北京の某大学:1968年
ずんだもん> なんだか、学生たちが騒がしいのだ。
学生> 造反有理!毛主席万歳!
職員> A教授がつるしあげをくらってます。
ずんだもん> 普段、ずんだもんに反対ばかりしてるAが? いいキミなのだ。
職員>A教授が血まみれでかつぎこまれてきました。。
ずんだもん> え、まずいのだ。なんとかしないと。。
学生> 旧物破壊! 毛主席万歳!
ずんだもん> 同志学生諸君、我々は労働者農民と連帯し、封建的地主階級精神を打倒しなければならない! ずんだもんも、あの邪悪な封建的地主の産物 蘭亭序が偽物であることを解明した。毛主席万歳!
学生> 封建地主打倒! 毛主席万歳!
ずんだもん>ふうう、助かったのだ。
B教授>あのお、ずんだもん先生、50年も前にスウェーデンの人が楼蘭で発掘した紙片に、行書や草書が書いてあるんですが。。これ蘭亭序より古いですよね。
ずんだもん>B教授は、帝国主義国家の本をもてあそぶ反動派である。自己批判するのだ。
学生>自己批判! 自己批判!
]]>
荘子写本と避諱
http://reijibook.exblog.jp/30273760/
2023-03-18T10:04:00+09:00
2023-03-21T15:13:49+09:00
2023-03-18T10:04:13+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
ペリオ 敦煌本 を広く紹介した、
饒宗頤編集、敦煌書法叢刊、第二十八巻、道書(二)、一九八六年、二玄社、
南華眞経刻意篇 Pelliot Chinois2508
https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8302010t.image
をいじっていたら、きがついた。南華真経てのは書籍としての荘子の別名である。これは、編集者饒宗頤先生も太宗皇帝の時代のものだと書いている。「淵」(初代 李淵の「淵」)「世」(太宗皇帝 李世民の「世」)が欠画していて、「治」(三代 李治の「治」)が完全(イメージ)なので、太宗皇帝の時代だと羅振玉が雪堂校刊羣書叙錄に書いていると引用するという微妙な書き方をしている。これは次の事情による編集者饒宗頤先生の逃げなんだろう。
羅振玉 雪堂校刊羣書叙錄の該当部分を下イメージにあげておく。
よく考えたら、玄宗皇帝が南華真人という称号を荘子に与えたことから、南華真経というようになったという別の記録と矛盾する。太宗皇帝と玄宗皇帝じゃ1世紀ぐらい離れているしねえ。この件の記録は色々な文献があるようだ。天寳元年のことだという。唐会要、新唐書などなど。..
でも、南華眞経刻意篇写本が太宗皇帝の時代のものならば、玄宗よりずっと前に「南華真経」という名称があったことになるからだ。それにこの表題「南華真経 刻意篇」という文字は写本の巻頭に同筆で書いてある。あとで書き加えた題ではない。
とすると、
・南華真経という名前のほうが先にあった。
・この写本は玄宗皇帝より後の時代の写本であって、道教経典なので、避諱がゆるかった厳格でなかった。
のどれかではなかろうか?
どうも、後の避諱がいいかげんだったというほうが正しそうだ。書風の感じから、開元天寶以降のようにみえるし、他の道教経典で、今上の皇帝の諱すら避けていない例があるからである。
]]>
臨河叙
http://reijibook.exblog.jp/30250846/
2023-02-18T13:57:00+09:00
2023-02-18T13:57:18+09:00
2023-02-18T13:57:18+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
臨河叙 であるが、多くの記事・論文をみてもまともに全文を
信頼できる版本で表示したものが少ない。
情けない限りである。
そこで、
前田家の宋版からの画像(昭和蘭亭記念展 図録から、)と四部叢刊本(明時代 嘉靖年間刊行の良版 wikimediaから)を紹介しておくことにした。
まず 宋版(少し破損文字がある)
次に、明版(四部叢刊本 四部叢刊書録の解説によると、他の版のように注釈に省略がない良版なんだそうだ。)
]]>
唐人臨 真草十七帖
http://reijibook.exblog.jp/30229183/
2023-01-22T14:18:00+09:00
2023-01-22T14:47:22+09:00
2023-01-22T14:18:46+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
王羲之と蘭亭序 という企画展を東京国立博物館と台東区書道博物館でやるそうですし、あと十年で蘭亭会だし、なんか忘れているもの忘却されてるものはないかと思ったら、
ありました。
もと田中槐堂先生 旧蔵で、今どこにあるのか? ちょっと確証がつかめないもの。ひょっとしたら春日井の道風記念館にあるかもしれない、なんかそういう風な田舎の美術館にあった憶えがあります。今でも国内にあるんでしょうか。
唐人臨書 真草十七帖 趙子昴 補書
本紙縦24.9cmと24.8cm
というものです。昔、書品199号で特集されたこともあったのにね。このときは、「唐臨趙補 右軍二帖巻」というタイトルになっていた。
これは、引っ越しなどいろんな事情で、もとの本が手元になく、写真デジタルイメージしか残っていなかったのですが、今回、レタッチ補正しました。
]]>
1956年京都で陳仁濤コレクション絵画展
http://reijibook.exblog.jp/30197962/
2022-12-16T06:32:00+09:00
2022-12-17T08:03:35+09:00
2022-12-16T06:32:36+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
日本の京都で昭和31年
宋元明清中国名画展 陳仁濤蒐蔵
が開催されたことがある。
そのとき戦後美術移動史の著者が鑑賞したときの記録が実におどろくべきものであった。
>
私がいままで見てきた展覧会の中で、これだけは書いておきたいという展覧会の一つに、昭和31年に朝日新聞社の主催で開かれた「宋元明清 中国名画展」がある。東京でも開かれたようなのだが、私は京都市美術館でみた。。ちょうどそのとき安井曾太郎の遺作展が大々的に開催されていたのだが、私はその安井展を見終わって、なにげなく、美術館のたしか階下北側数室を利用して開かれていたこの中国美術展に足をふみ入れた。その瞬間全くいままでの世界がひっくり返ったようにびっくりしてしまった。足をふみ入れたその部屋の壁に、董源の「秋山行旅図軸」とか巨然の「渓山蘭若図軸」があったのだ。絵そのものがこちらに向かって押しよせてくる。画面の1点、1画さえもが、全体の中で鳴りひびきながら、大交響楽を奏で続ける。一本の線の無駄も、一点のあいまいさも、ない。この強さ、、圧倒的な強さ、これが絵だろうか。と私は思った。まあなんと日本の水墨画とはちがった世界なのだろうかなどと思ったのは大分たってからだった。
このときの感激はいまも忘れていない。もっともこの展覧会も第二室か第三室以降の作品となると大分あやしいものもふくまれていたなどと後で聞いてもその第一室の感動は変わることはなかった。またいつかこの展覧会のことははっきり思い出さねばならない。と思っていた。
>
田中日佐夫氏に、ここまで昂揚した文章を書かせた展覧会が、陳仁濤 のコレクションの展覧会だったのである。このときの図録パンフレットが、上のイメージである。
しかも、甚だしく皮肉なのが、この董源「秋山行旅図軸」(下)と巨然「渓山蘭若図軸」(下)がどちらも20世紀の贋作であったことだ。
田中日佐夫氏の文章は、昭和31年時点の日本のインテリゲンチャの中国絵画理解がいかにずれていたという、証拠でもあった。あるいは、一流画家にして一流の贋作者、張大千がいかに傑物であったのかという証拠でもある。
ref 田中日佐夫、戦後美術品移動史(25)、芸術新潮1975年1月号。
なお、この連載はその後、単行本にまとめられるが、そのとき大幅な削除伏せ字などを余儀なくされた。古雑誌をあつめて参考にせざるをえないという難儀な著作である。
]]>
蕪村の蘭亭屏風購入秘話
http://reijibook.exblog.jp/30187752/
2022-12-03T16:16:00+09:00
2022-12-03T16:17:28+09:00
2022-12-03T16:16:24+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
東京国立博物館100周年の昭和四八年のときに、芸術新潮で特集記事があった。そのなかで、東京国立博物館が与謝蕪村作の蘭亭曲水図屏風
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0054789
を買ったときのエピソードが転載してあった。旧字体そのままで面白かったので、ここにタイプして紹介する。上イメージは当方撮影。照明のせいか少し黄色っぽくみえる。
平山堂より買い上げ請求ありし品を調査の為一日出張せし時、其室の一隅に不計眼光に触れたる南画の屏風ありき。之を開きて一二扇を見るにいかにもよき画なり。誰なるかと問えば蕪村なりと答ふままに、興味付て落款印章迄もながめ、其名品たるを認めぬ。さて他の用件相済み立帰らんとして再び此屏風を指して、之を幾何金にて売却するかと問ひたるに、主人言を左右にし、ケケと咲ひて答へず、此頃博物館にて買上費至て微弱なることを承知せし主人としては尤もの次第なりと思ひしまま、博物館ならざるも或いは他の求むる所もあらん、遠慮なくはなし呉れと問せしに、主人も然ばとて奥より帳簿引出し、これは武藤氏などにも願ひつつあるも、金持連は其無名氏の賛文字の有るをとがめて、容易に話しまとまりがたしとかこちつつ、先づ参千五百円ならばよろしからんとて、別に希望なげの挨拶なりき。其間にも余は横目につくづくと見て、之をのがしてたまるものかと力味つつ、よろし其値ならば必ず売却するかといひしに、勿論よろしと快答を得しかば、其場を一先はずして上野を指して飛び帰り、直に矢島事務官に面して事の次第を語り、同意を得て更に大島総長に会してこれを具陳し、是非奮発ありたしと懇談せしに、幸に賛成の意を表され、然ば直に行きて原物を展観して其諾否を決すべしとて、時を移さず車を命じ、三人同伴、四谷見附さして走りぬ(嘗て寸時の差にて非常なるものを遁したることありき)
大正15年、溝口手記
SOURCE REF:三山進、東京国立博物館100年の買い物、芸術新潮、1973年1月号、79頁
]]>
西園雅集
http://reijibook.exblog.jp/30143415/
2022-10-13T06:00:00+09:00
2022-10-13T06:28:27+09:00
2022-10-13T06:00:22+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
「西園雅集」というのは、有名な画題で 頻繁に使われた。日本でも掛け軸や屏風の画題として使われた例は多い。蘇軾や黄山谷など有名人がでている会合なので親しみやすいのだろう。
ひどい例では、どうみても西園雅集ではない絵にまで西園雅集という名前をつけた例すらある。ネルソン美術館のいわゆる西園雅集図巻もそういう被害にあったものだ(ref 1)。
もともと「春遊賦詩図」という外題がちゃんとついているのに、学者が「西園雅集」だと名前を変えてしまったのである。
https://art.nelson-atkins.org/objects/20646/composing-poetry-on-a-spring-outing
また、西園雅集図記という文章があって、北宋 米フツの選並びに書とされている。米フツの書とされているものが戯こう堂帖巻1に刻されている(イメージ)。
この文章を後の時代の書家が書いたものも多い。有名なところでは、張瑞図のものがある。
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0025784
台北 國立故宮博物院 の解説によると、
https://theme.npm.edu.tw/exh108/ElegantGatherings/jp/page-4.html
>北宋皇室のフ馬(宝安公主の夫)王セン(1048-1104)は、風雅な盛事として知られる「西園雅集」を邸宅で催しました。当時の著名な文化人─蘇軾(1037-1101)や黄庭堅(1045-1105)、李公麟(1049頃-1106)、米フツ(1052-1108)などが貴賓として出席し、後に李公麟が絵図を、米フツが記を著してこの稀に見る盛会を記念しました。しかし、この雅集は架空の出来事で、これを記念した書法や絵画などが流伝したのは、後人による偽造がもたらした結果だったことが、研究により明らかになっています。
>
ということだ。
会合自体が架空のものだという説が有力のようである。そうなると米フツの書も偽物ということになる。
架空かどうかは、ともかく、この「記」にあげられた人物の中に、日本人がいるというコメントがある。
「円通大師」である。俗名を大江定基という人で、宋へ行き、名声を得た。今昔物語にもでてくる。
ただ、これは別人で、
別の中国人(俗人のときの姓は「何」)の「円通大師」がいて、そちらのほうだという説のほうがもっともらしい。当時の高僧伝などを調べる能力はないので、この件は中世の仏教文献に詳しい人にききたいものである。
宋なんて古い絵だとはおもはないが、 台北にある絵巻物風の絵は、全員の名前が書いてあるので、ここで紹介しておく。
ところで、西園雅集が架空のものであるという説は、、かなり古い時代からあるようだが、
福本雅一氏の
西園雅園雅集図をめぐって(上) / 福本雅一、 学叢 第12号, 京都国立博物館 平成 2年3月31日
西園雅園雅集図をめぐって(下) / 福本雅一 学叢 第13号, 京都国立博物館 平成 3年3月31日
https://www.kyohaku.go.jp/jp/gaiyou/gakusou/
に詳しい。ただ、この論文では、どうも、架空であるという確証をえることはできなかった。もっと強い証拠があるのかと思ったが失望した。台北故宮の意見もあることだし、ref1でも「架空だという異見が強い」としてあるし、他にもっと強い証拠があるのだろう。
この文章で失望したのは他に2点ある。一つは「西園」という庭園の実在性を疑っていることだ。留園や円明園というような名前と違って、「西園」というのは広い庭園ならどこにでもあるわけで、現に拙政園にも「西園」「東園」がある(ref2)。固有名詞として「西園」のあるなしを探すのは無意味なことである。
また、趙徳麟 について、「未詳」としていることだ。この人は、
趙令ジ(田+寺)徳昭(太祖 趙匡胤の子 燕王)の玄孫。字 徳麟 元佑年間に有名人と交わる、ACE1051-1157
福本雅一氏は懐素 自叙帖の跋をみたことがないのだろうか? 中国書道史をやるものなら、一度は一応図版でチラとでも観るだろうに。この図版は少なくとも1966年末以降なら、日本で観ることができた(ref3)。この論文の25年前からモノクロながら精密な図版と解説があったのだ。ref3は、大学なら閲覧は容易であっただろう。下イメージ(故宮のサイトからとった)のように趙徳麟令ジ と大きく書いてある。また、東京国立博物館の高島コレクションにも書簡が1点ある。これの自筆部分には「徳麟」という文字はないが、両脇の清時代の題にはちゃんと書いてある。当方も何度も観た。どうも福本雅一氏は文献を重んじて、遺物・現物を軽んじる傾向があるのが残念なところである。
ref1 Mark F. Wilson(翻訳 河野哲郎),馬遠筆画巻について、 MUSEUM, no380, 1982, november,
ref2 江南の庭園 グラフィック社
ref3 故宮法書 第7輯 上下二冊、 懐素自叙 民國55年初版 大塚工藝社印刷、國立故宮博物院 発行
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/