ペリオ 敦煌本 を広く紹介した、 饒宗頤編集、敦煌書法叢刊、第二十八巻、道書(二)、一九八六年、二玄社、 南華眞経刻意篇 Pelliot Chinois2508 https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8302010t.image をいじっていたら、きがついた。南華真経てのは書籍としての荘子の別名である。これは、編集者饒宗頤先生も太宗皇帝の時代のものだと書いている。「淵」(初代 李淵の「淵」)「世」(太宗皇帝 李世民の「世」)が欠画していて、「治」(三代 李治の「治」)が完全(イメージ)なので、太宗皇帝の時代だと羅振玉が雪堂校刊羣書叙錄に書いていると引用するという微妙な書き方をしている。これは次の事情による編集者饒宗頤先生の逃げなんだろう。 羅振玉 雪堂校刊羣書叙錄の該当部分を下イメージにあげておく。 よく考えたら、玄宗皇帝が南華真人という称号を荘子に与えたことから、南華真経というようになったという別の記録と矛盾する。太宗皇帝と玄宗皇帝じゃ1世紀ぐらい離れているしねえ。この件の記録は色々な文献があるようだ。天寳元年のことだという。唐会要、新唐書などなど。.. でも、南華眞経刻意篇写本が太宗皇帝の時代のものならば、玄宗よりずっと前に「南華真経」という名称があったことになるからだ。それにこの表題「南華真経 刻意篇」という文字は写本の巻頭に同筆で書いてある。あとで書き加えた題ではない。 とすると、 ・南華真経という名前のほうが先にあった。 ・この写本は玄宗皇帝より後の時代の写本であって、道教経典なので、避諱がゆるかった厳格でなかった。 のどれかではなかろうか? どうも、後の避諱がいいかげんだったというほうが正しそうだ。書風の感じから、開元天寶以降のようにみえるし、他の道教経典で、今上の皇帝の諱すら避けていない例があるからである。
by reijiyam
| 2023-03-18 10:04
| ニュースとエッセイ
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||