玲児の中国絵画入門 8 唐以前と宋以後

 中国絵画の歴史を現代から眺めるとき、唐と北宋の間に大きな断絶がある。

宋までは歴史、唐以前は考古学の対象である。


北宋まではなんとか、地上で手から手へ伝世された絵画をみつけることができる。唐時代以前となると、(日本伝世など)ごく希な例外を除いてそういうものをみつけることはできず全て盗掘品なり考古学的発掘品なりに頼ることになる。敦煌石窟壁画は一応地上だが、どちらかというと考古あつかいではないか? 小杉一雄は「忘中古」という面白い呼び名で敦煌石窟壁画を呼んでいる。また敦煌の石室から発見された文書・絹画などは壁をこわしたとき発見したのだからどちらかというと発掘品である。 発掘品の場合、時代ぐらいはなんとかわかるが、特定の画家や流派に結びつけることは難しい。

 中国の地上の文化財は会昌の廃佛、唐末五代の戦乱で徹底した破壊をうけたと言わざるを得ない。


それは、晩唐の849年(「860年ごろ」は間違い、すみません)の歴代名画記と 北宋末の米フツの画史を比較してもわかる。歴代名画記には、「顧ガイ之・陸探微・張僧ヨウ・呉道子の絵画を集めて初めて立派な収集だといえる」と書いてある。多少の誇張もあるだろうが、そんな収集は、11世紀には徽宗皇帝でも困難なことであった。その間たかだか250年である。


 そのため、明以降になると、南北朝時代や唐時代の絵画は模写本やもっともらしい贋物すら殆どなくなった。そのため、当時の画家がどういう絵画を描いたのか全くわからなくなり、画風によって画家を推定することすらできなくなった。例えば 大阪市立美術館の「五星二十八宿神形図巻」に対して董其昌は呉道子だといい、陳継儒は閻立本だという。別の文献では張僧ヨウだという。 歴代名画記の著者なら画風が大きく違ってみえただろうからそんな変な意見はでるはずはない。 明時代には、文献記録だけは残っているので、画家の名前だけはわかる。こういう事情は、欧米でギリシャローマの画家の名前だけは文献で残っていて(アッベレースとかエウドクソスとか、、)絵画自体が全て失われているという状況に近い。 それでサインのない古画に適当な画家名をあてることになり、その結果として、ピカソの絵にルーベンスやレオナルドの名前をつけるような時代錯誤が少なくないことになった。


by reijiyam | 2015-04-03 08:01 | 中国絵画入門 | Comments(0)
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