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玲児の中国絵画入門 20 乾隆アカデミズム

 
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乾隆帝時代の宮廷の絵画作品というのは、知っているようで知らないというか、中国絵画史のなかでどういうところに位置づけるかがよくわからない、という感じがする。

  私が色々考えた結果、2つの面をあげたら、捉えやすいのではないか?と思っている。

一つは玲児の中国絵画入門 19 四王呉惲 でとりあげた明末清初の四王呉惲が造った「新しい平凡」といえる総合様式を大きく拡大し、宮殿や邸宅の大壁画に適用されたものが、現物で多数確認できるということだ。明末の紫禁城にも巨大な壁画が多数あったはずだが、李自成の軍が北京を退去するとき紫禁城の宮殿を焼いたので、ほとんどなくなっている。

したがって、宮殿壁画{貼落といわれるポスターあつかいのもの}が多量に残っているのは、この時代のものである。

上のイメージは、
清 銭維城 棲霞全図 1760題、台北國立故宮博物院
銭維城(1720-1772)の作品で、224.9x158.5cmもの大きさだ。2メートル以上の高さがある。


もう一方は、郎世寧(カスティリオーネ 1688-1766)に代表される西洋画の影響である。
郎世寧は、イタリア人だから、これは中国絵画なのかという批判もありうるが、外国人主導とはいえ、郎世寧(カスティリオーネ 1688-1766)の弟子や追従者もいたようだし、一種の中伊合作でもある。

 前から思っていたのは、カスティリオーネ自体は油彩やテンペラ、フレスコの技術をもっていたはずである。油彩による作品らしいものは数点しかない。昔考えたときは、、材料がなかったのかな?と思っていたが、良く考えたら当時の画家は絵の具は自作していたはずである。既製品の絵の具なんか使っていない。 またキャンバスなども麻布なんだから北京でいくらでも調達できたであろう。顔料・乾性油なども皇帝の権力で利用できないはずはない。

  どうも、このような中国絵画と西洋絵画を融合したような様式技法は、郎世寧のまわりで創造されたものではなかろうか?

 郎世寧は宮廷にいた人だから、前述のような宮殿用の超大型の絵も多いわけで、

清 郎世寧(カスティリオーネ 1688-1766) 十駿犬茹黄豹 、台北國立故宮博物院
247.5x163.7cm

 こういうのがある。これは2メートル50センチちかくもある。


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そして、付随的なことだが、こういう西洋風中国画というのは広東などで量産され、どうも江戸時代の洋風画、例えば司馬江漢、そして北斎などに影響を与えた可能性があると思う。


一方、満州民族のセンスが色濃いような特異な作品に
平安春信Castiliogne Peking 68.8x40.8cm 1782題 北京故宮博物院

がある。

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by reijiyam | 2015-09-21 18:34 | 中国絵画入門

玲児の中国絵画入門 19 四王呉惲

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 ちょっと難しい問題を書いてみる。これは入門に書くことではないかもしれない。そうはいっても、ここを突破しないと近代までつながらないんだから、しょうがない。

 清朝の正統派 アカデミズムを造ったのは四王呉惲だといわれている。
 四王呉惲というのは、王時敏,王鑑,王キ (王石谷) ,王原祁 (おうげんき) ,呉歴,惲寿平 (うんじゅへい) の6人である。上の絵は、王時敏,王鑑,王キ (王石谷) ,呉歴の作品である。

   この四王呉惲は、実は皆、明末清初の人々で、清朝にしか生きていないという人はだれもいない。明が滅んだとき、王時敏は52歳,王鑑は46歳,王キ (王石谷)は12歳 ,呉歴は12歳,惲寿平は11歳、最年少の王原祁でさえ、1年ほど明朝を生きている。明末清初画家として有名な八大山人は18歳だったのだから王時敏,王鑑の息子の世代である。明王朝王族出身のいわゆる遺民画家石濤と比較してみる。石濤は、王原祁よりは年長だが惲寿平より若く、王原祁との合作まである。
  画風の違いから、いわゆる明末清初画家と四王呉惲を分け、四王呉惲を清朝盛期のほうに引きつけて考えがちであるが、画風の継承関係はともかく時代的には全く間違いで、すべて同時代の活動だと考えなければならない。

 次に画風については、「董其昌に従って古画を学び模倣し新味なし」というような批評が多いけれど、いったい、彼らよりも古い絵画で彼らのような絵画があったであろうか?? 確かに、古画をパラフレーズしたものは多いし、XXを模倣したというサインがあるものは多いのだが、画風でいうと全く別物で、直接的な先祖を指摘することは困難である。ただ、その後、清末中華民国時期まで、この四王呉惲の様式が膨大なエピゴーネンを生み、無難で正統な形式になり、重量トンで測ったほうがいいくらいの多量の似たり寄ったりの絵画が生まれたので、つまらない平凡などこにでもある中国絵画様式にみえるのである。ただ、彼らが標準化したのは、山水画の世界だけである。それ以外の分野では、惲寿平様式が花卉画で流行ったが、それでも標準化したというほどではなかった。ずっと後世の、雍正乾隆時代の揚州八怪や清末の海上派が主として山水画以外に新味を出したのも、こういう権威の圧力があったからだろう。


 私はこれを「 新しい平凡」と呼びたいと思う。一種の折衷様式であって、それが正統になる過程や立場は、日本の狩野探幽による狩野派の覇権確立と似ているようにも思う。狩野探幽と時代もほぼ同じなのは不思議というほかはない。また、さんざん悪口をいわれてきた19世紀フランスのアカデミックなサロン画家の立場にも似ている。

 狩野派は血縁と養子縁組と師匠弟子関係で組織を作ってきたが、四王呉惲はどうだろうか? 王時敏と王鑑は地縁、王キ (王石谷) と呉歴と惲寿平 (うんじゅへい)は殆ど同じ年齢で交流がある。 王原祁は王時敏の孫だ。ここだけは血縁ね。王キ (王石谷) の工房は康煕帝の御用画家になって権威になったし、 王原祁は宮廷で高官になったから、これは権威そのもの。この王原祁の画風だけが董其昌にいやに似ているのは偶然ではないだろう。

  四王呉惲は、古画の模倣の元凶のようにいわれているが、例えば下の王鑑の「倣李成」は、現代考えている李成のイメージからははるかに遠い。つまり当時既に李成の画風は解らなくなっていたか、倣李成というのは口実だけで勝手に描いてよいと思ったのか、そのどちらかであろう。

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 ただ、こういう模倣XXという看板が、後世に、単なる模写を作品あつかいしたり贋物つくりに正統性を与えたりして、山水画をどうしようもない沈滞におとしいれてしまったことも事実だろう。



by reijiyam | 2015-05-24 21:29 | 中国絵画入門

玲児の中国絵画入門 18   董其昌と文人画

  明末の官僚書画家:董其昌(1555-1636)と文人画という問題をちょっと考えてみたい。

  中国絵画を語るとき、文人画という概念を振り回す人もいる。日本における、中国の文人画に対する概念として「中国の文人画というものは士大夫(文官官僚を中心とする読書人階級)によって代表される素人が描いた絵をさす」(REF.飯島勇 編集、 文人画、日本の美術第4号 至文堂 )
 だとすると、北宋時代の絵画のほとんどは文人画ではないし、有名な中国絵画の半分以上は文人画ではない。  
 こういう変な議論が横行するのは、中国において画に関する理論と実際の制作がかなり乖離しがちなことが原因である。
 例えば、北宋の画家かつ官僚であった郭若虚はその図画見聞志に「昔の優れた絵画は全て高位高官の人々や高潔な在野の教養のある隠者が描いたものだ」「人品が既に高いのだから気韻が高くならないわけはない。気韻が既に高いのだから絵に生動が出ないはずはない。」という階級が読書人でなければダメと主張しながら、その各論で絶賛している画家は多くは職業画家で下手すれば文盲に近い人もいあたかもしれないようなムチャクチャな矛盾を平気で記述している。
 このように、絵画史の初めのころから、「理想の画家イメージ」と現実が、かけ離れていたのであったが、実は明末までは理論は理論、実践は実践で相互に無視していたような状況だったように思う。

 ところが、明末万暦ー天啓年間に受験勉強の天才で文部副大臣にまで成り上がった董其昌がでて、理論に現実を合わせようとしたから、おかしなことになった。おまけに多様な絵画が輩出した明末において、董其昌は一つの新機軸を出したから、ここで「高級官僚の素人画家」が具体化したのである。おまけに董其昌は「書画の特技で暴利をむさぼっている」と非難されたぐらいだから、自分とその仲間の絵画流派こそが正統だと主張した。これは商売敵を撃滅するシェア争いのようなものだ。
 もっとも、確かに董其昌の作品には結構面白いものがある。

 この四十三歳、1597年に友人のために描いた婉孌草堂図は、そうとう変である。


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空間がおかしく、モノが宙に浮いて漂っているような感がある。なんとも不思議な絵である。ただ技術的にはさして優れているわけではない。こういう面白い絵ばかり描いているわけではなくどうということもない平凡な下手な絵ある。また代作もずいぶん多かったようだし、むしろ代作のほうが技術的には優秀な絵が多いような感じがする。 下の台北國立故宮博物院の奇峯白雲図なんて、何度もみているがどこが良いのかさっぱりわからない。

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 董其昌のプロパガンタの副作用として、「下手な絵でも高位高官の絵なら価値がある」ということになった。一方、董其昌の実人生をみると腐敗官僚そのもので、到底「人品が高い」とはいいかねるものであった。董其昌自身が彼の理論を裏切っているのである。董其昌のインモラルな快楽主義は明末の陽明学+禅学の影響のようにもみえる。あの李卓吾と意気投合した人だそうだ。ところが、清の康煕帝が董其昌の書画を好まれたので事態が悪化した。悪口が言えなくなり美化されたのである。そのために清時代はまあボロがでなかったのだが、「文人画が職業画家の絵画より優れている」というのは、もともとかなり無理な理論だったのだから、現代まで一部に残照はあるとはいえ、だんだん棚上げされるようになってきた。その有様は、既に、乾隆時代の方士庶の画論にもほのみえる. 「写実を軽視するような理論を振り回す人は絵が下手なんだ」とか書いている。

この件は、
文人画とはなにか


という文章にも書いておいた。

また、董其昌の悪行を暴いた著作として、福本雅一, 先ず董其昌を殺せ, 明末清初, 同朋舎出版, 1984, 8, 、及び「董其昌の書画、二玄社にも収録
がある。

実際、明末の高級官僚画家にはずいぶんな人が多かった、ある人は男色家だったし、ある人は清の軍勢が攻めてきているのに戦費を横領して芸者遊びに耽溺した。

高級官僚が「人品が高い」とは到底いえないのは、現在の中華人民共和国の幹部をみても想像できるのではなかろうか。



by reijiyam | 2015-05-03 17:08 | 中国絵画入門

玲児の中国絵画入門 12 文徴明




鳥瞰図で文字だけであげたものを実例で絵解きする続き。
ただ、これも、あまり しっかりした解説ではなく、ゆるい感想程度ね。


蘇州の沈周 文徴明、仇英, 普通はこれに唐寅をいれて、四大家とかいうんですが、どうも唐寅の絵にそれほど時代をリードし抜きんでたものを感じないんで、除きます。
 ここで、面白いのは、この三人、まあ四人でもいいんですが、皆、高位高官の役人ではないことです。仇英は純粋な職業画家で、一説には文盲だった(そんなわけねーだろ)というぐらいです。文徴明は科挙にずーっと失敗し続けた浪人で、友人の推薦で一時、北京の翰林院で仕事をしましたが周囲から冷遇され短期で切り上げて蘇州にもどりました。沈周は大地主で、地方の顔役でしたが庄屋的な役職についたぐらいの人です。商人の息子:唐寅は超優秀で科挙試験でトップ及第を繰り返して驀進、北京に試験にいったのはよかったが、不正事件に連座して失脚、その後は在野生活。なんか不平王族の幕僚に招聘されたことはあったようですが、反乱事件にまきこまれそうになって脱出しました。
 文人画の典型といわれるような文徴明・沈周にしてもこうなんですからね。

1999年に書いた

文人画とは何か

という小文にさして間違いはありませんでした。
要するに「高位高官が余技で描いた絵」というのは嘘だったということです。

蘇州の沈周 文徴明、仇英を一緒に書くのはしんどいので、分割してあげます。

 さて、やはりこの蘇州の画家のうちでは文徴明(1470-1559)が一番重要です。なぜなら、彼は一つの様式を建設して、後輩の蘇州の画家は皆、追随し、その影響は清末の画家まで及んでいるからです。教養ある画家が倣うべき一つの様式を作ったということは偉大なことです。
 また、書画が一体になった芸術作品を沈周とともに作っていますね。元末四大家は呉鎮を除けば、そう能書家とはいえませんでした。むしろ元初の趙子昴が書画一体といえないこともないのですが、保存の良い趙子昴の書画合壁が少ないのが残念です。趙子昴の近くにいた元の朱徳潤「秀野軒図巻」(北京故宮博物院)も書画合壁ですから、趙子昴→沈周文徴明という線での伝承なのでしょう。書画合壁が盛大になったのはやはりこの時代の蘇州からでしょう。
 文徴明の周りには多数の画家が集まり相互に影響を与えたり追随したりして、文徴明逝去後も様式を伝え「呉派」と呼ばれました。

孤立した天才の仕事ではないので強力に後世に影響を及ぼしました。当然、代作や偽作、模写、も多かったと思います。

文徴明の代表的な作風は、やはりこの「江南春」(台北國立故宮博物院)の繊細優美なカラリストぶりではないでしょうか?このような絵は、彼以前に描かれたことはないと思います。


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また、その一方、特に晩年作に大胆で強靱な古木などの絵がめだちます。例えばこの古木寒泉(台北國立故宮博物院)
ホノルルの七星檜も有名ですが未見です。これは趙子昴の絵の模写ということになってますが、模写なのかなあ?

この辺の様式変化 整合性をどうとらえるかは、まだよくわかりません。

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by reijiyam | 2015-04-10 10:03 | 中国絵画入門

玲児の中国絵画入門 9 鳥瞰図


 前回、宋以後だけが歴史として語れ観賞できると述べたが、宋以後でも1100年ぐらいある。
 西洋絵画史を見る場合、まあルネサンスがあってバロックがあって印象派があって、20世紀には抽象画だなんだ、ということでというざっくりした分け方でなんとなく解ったような気になるものだ。中国絵画で、宋以後で、そういうことができないのだろうか?

 まずはっきりしているのは、伝統的中国絵画の下限・有り体に言えば滅亡の時期で、それは、大平天国の乱・アヘン戦争のころである。これ以後、上海中心の「国画」の繁栄、西洋絵画の影響、日本の改革された日本画の影響などで、全く様相が変わってしまう。

 次に宋からアヘン戦争までの間で、いくつかの高峰、後世から典型とされ仰ぎ見られ、模倣され、贋物が作られる時代や作品群・流派があるわけだ。

 1.北宋時代の山水画と花鳥画と白描画、
 2.元末四大家(黄公望、呉鎮、王蒙、倪雲林)、
 3.明中期の蘇州の沈周 文徴明、仇英。
 4.明末清初の爆発的な多様化
 5. 乾隆アカデミズムと揚州派の時代


 この5点を押さえておけば、あまりひどい脇道にそれたりしないと思うし、なんとなく見通しがよくなると思う。
 勿論、この他にも重要な画家や画派や部門や作品は膨大にあり、日本に保存された宋元水墨画を無視するのかとか、抗議が多いだろうが、まずメインストリームを提示しないと五里霧中になってしまう。

by reijiyam | 2015-04-04 09:30 | 中国絵画入門

玲児の中国絵画入門 7 谿山行旅図をみにいく

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ネルソン クリーブランド展を観たことで、再び中国絵画とくに山水画への関心が掻き立てられた。

玲児の中国絵画入門 4 吉村 貞司の煽り
http://reijibook.exblog.jp/22914314/

で、あげた 范寛の 渓山行旅図の実物を是非 観賞したいと思うようになった。

 東京国立博物館の東洋巻で中国書画はしょっちゅう展示替えしていることを知っていたし、所蔵している絵画が展示されていなかったベニスの美術館、玄関までいったが閉館だったロッテルダムのボイマンスなどの苦い経験がある。事前に展示しているかどうかを知らねばならない、と思った。わざわざ行っても展示していなければ無駄である。

  そこで、旅行社に相談したが全くダメ、日本における中華民国の実質的な大使館である台北駐日経済文化代表処
http://www.roc-taiwan.org/JP/

に手紙を出して、秋の10月10日~11月20日に名品展をやっているので、そのときいくといい、という情報をなんとかもらった。当時は、台湾にいくのにもビザがいったので、かなり前に準備しないと旅行自体できない。当時は、日本人がホテルに泊まると売春斡旋がうるさいという評判だったので、台北駅前のYMCAにした。結局1984年11月16日~18日で台北國立故宮博物院を訪ねた。

このときのメモが残っているが、「頭がオーバーヒート」と繰り返し書いているくらい興奮した。
なんせ、イメージのような豪華な惜しみない展示方法だったので、強烈な衝撃を受けたのだ。

 これほどの大盤振る舞いは、現在ではあまりやらないが、それでも、結構惜しみなく展示するほうなので、中国絵画 観賞の入門としては、極初歩のことを知ったら、台北國立故宮博物院で名画展をやっているときを狙って観賞することを是非お薦めする。最近はインターネットで展示情報を容易にとることができる。1990年代のように苦心惨憺し、手紙を出したりして情報を得る必要はない。中国書画の美術館などでの鑑賞のときいつも悩まされるのは、この展示替・展示期間などの問題であるが、現在ではインターネットによって、ある程度は改善されたのだから利用しない法はない。


 北京や上海に何度通ってもこういう経験はできない。刺激が強すぎたせいか。その後、1980年代に、北京故宮博物院の明清画展示を見たとき、ほとんどみるべきものがないと過小評価したぐらいである。

 その後、東京国立博物館の東洋館の中国書画ギャラリーには定期的に通って観賞していたが、
中国絵画を収集することは到底無理と悟って諦めた。むしろ拓本や書道史、古代の文物に関心を移すようになった。個人的事情もあり、台北國立故宮博物院に再訪するのはずっと後の1990年代になってからになる。

by reijiyam | 2015-04-01 08:56 | 中国絵画入門

玲児の中国絵画入門 6 ネルソン クリーブランド展

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東京へ移ってからは、東京国立博物館に通って東洋館の中国書画の常設展をみていた。当時、中国書画を常設!していたのは、日本中でここだけではなかったか?それに、比較的信頼できそうなところもいい。
 
 その東京国立博物館で、1982年10月5日~11月17日に開催された特別展
「米国二大美術館所蔵 中国の絵画」(イメージ)は画期的なものだった。

  現実問題として、これを観た経験と台北國立故宮博物院での経験が私の基準になっているといっても過言ではない。それほどの衝撃があった。残った切符半券を数えても五枚あり、たぶんそれ以上いっているから6回以上は行っていることになる。

  これは米国のカンサスシティーのネルソンアトキンス美術館とクリーブランド美術館が共同で開催したもので、 まず、カンサスのネルソンアトキンス美術館で1980年11月7日~1981年1月4日、次に、クリーブランド美術館で、1981年2月11日~3月29日に開催した。1981年10月に東京にもいくことは当初から予定されていたらしい。 この展示は、東京国立博物館の本館の2F全部で開催された。はっきりいてガラガラで、もったいなかった。

当時の東京国立博物館ニュースを引用すると「281件を陳列し、周~漢時代から清時代中期に至る中国全時代の系統的観賞の機会とした。北宋山水画の傑作や日本に優品の少ない元明清時代の文人画など、これら中国絵画本流にあたる作品の優品はよき眼福の折となり、」である。

 まあ、「周~漢時代」というのは大げさで南北朝時代までは少数の考古品のみ、有名な石棺石刻画も拓本のみだったし、唐時代として確かなものはなんと日本人旧蔵の敦煌出土の画稿・落書き だけだった。しかしながら北宋~清の末期大変天国の乱直前まで系統的にまともな作品が鑑賞できたのは驚異的だった。古原宏伸氏は当時 ミュージアム379号に「中国絵画の復権」という文章を書き、数点をあげて議論したあと、「批判がましいことをいえるのは、ほとんど以上にすぎない。二つの大収集を対象としたとき、これは驚くべき質の高さである」と絶賛していた。これを読んだとき、これは基準作にできる展覧会だ。無理しても通わなくては、と思ったものだ。

現在では、この言葉を文字通り真に受けることはできないが、それにしても粒が揃っている。仮に模本や贋作であったとしても、いかにもその時代その画家風のものであって、モネの絵をボッテチェルリにしてしまうようなムチャクチャなことはない。従来、中国絵画ではそういう無茶が平気で行われた。

訂正すべき点をいうと、
 クリーブランド美術館  雲山図巻の自題というような問題があるし、仇英の素晴らしく美しい潯陽送別図巻もどうもシカゴ美術館所蔵の桃源図巻から派生したものというの議論もある。 しかし、281件という量では、いくらか問題があるのはあたりまえである。普通の展覧会だと問題があるもののほうが多くて、素直に観賞できるもののほうが少ないという場合すらあるのだ。

 この展覧の特色として挙げられることは、明時代の作品が充実していて、しかも名のある画家の傑作と思われる作品が揃っていたことだ。文徴明の枯木図も良かったし、沈周文徴明合璧図冊も良質だった。董其昌の代表作といっても良い作が並んでいた。呉彬の五百羅漢図巻も壮大な作品だったし、クリーブランド美術館の明後期の丁雲鵬(1547-c. 1621)の玄コ出雲天都暁日図(Morning Sun over the Heavenly Citadel Peak, Ding Yunpeng 所蔵番号1965.28)は驚異的な作品で、会期の最後にはこれと許道寧「秋江漁艇図巻」だけを観にいったようなものだ。考えてみれば私の仙境図好みにあっていたのかもしれない。

また、清初の八大山人の作品も素晴らしく、法若真の雪山図巻はものすごいものであったし、日本も多いキョウ賢の作品だが、ここに展示されたような優れた画册(もと日本にあった博文堂で影印)や、壮大な2つの画巻のような傑作があるだろうか?と思う。

 これらによって、なんとなく植え付けられてきた「宋元画だけが素晴らしく明清画は堕落していて劣っている。」という先入観・迷信が「実物によって」、私の中で殆ど打破されたのが何より良いことだった。

 あまり感動したので、高かったし後日受け取りであったが英文カタログ(下イメージ)も買った。これがまた美術全集の一巻ぐらい重くて分厚く、しかも情報量が多い。あとで気がついたが、ミュージアム380号に掲載されたマークF、ウィルソン「馬遠筆画巻について」という論文は、書き下ろしの寄稿かと思ったら、なんとこのカタログの作品解説文を翻訳したものだったのだ。つまりこのカタログは論文なみの解説がどっさり詰まっているということになる。それに気がついたあと巨然谿山蘭若図の解説の翻訳を試みたりした。カバーは呉彬 五百羅漢図でこれも美しい。

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by reijiyam | 2015-03-31 10:14 | 中国絵画入門

玲児の中国絵画入門 5 中国画を買ってしまった


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 1975年ごろだろうか、長崎のある会場(ビルの中の貸し会場)で中国の掛け軸などの即売会があった。文革流出品というようなふれこみだった。わりと広い会場にはかなり汚い掛け軸が山積みされており、壁にも多数かかっていた。

 なんで、そんなところに行ったのか、よく覚えていないが、実家の近くだったので口コミや看板もあったのだろう。

 幸い!?「山水画は唐宋が素晴らしかったが明清は堕落した」「有名画家の作品には贋物がごまんとある」という「予備知識」をもっていたので、「沈周」や「文徴明」、「王石谷」などと麗々しくサインが入った汚い絵を全て無視して、無名画家の花卉画になんかいいのがないかと漁ったものである。意外だったのは、良いものがあるかもと思っていた墨竹画がひどいものだらけだったことである。

 そのとき買った2点は、意外と良いもので、現在まで捨てずにもっている。
  一つは西レイ印社の初期の社員 阮性山の1928年の若書きの細長い菊石図である。どうも菊蘭竹梅のセットだったものの1つだったのではないかと思う。この細長い形はそう考えると納得がいく。

   阮性山の発見
    
    にも書いておいた。
   もう一つは「竹初」という名前だけがある花と桃の絵で、たぶん嘉慶年間ごろの銭維喬の作品だと思う。これは買ったとき既に破れがあり、ひどい状態だった。その後、色々な経緯で紛失し、また戻ってきたので、友人の宮坂氏に表具をやりなおしてもらい、ずいぶん立派になった。

 大学生のとき、これだけのものが買える眼をもっていたということが当時わかってたら、職業選択を考えたほうがよかったかもしれない。当時これらの絵は「きれいな無名画家の絵」で「金にはならないが古い」ものであった。額縁屋・表装屋に「表装しなおしたい」ときいたら、表装する価値がないものだと言われた覚えがある。ある程度価値のあるものだとわかったのは21世紀になってからである。

 当時、即売会で売られた「文革流出品」は、どこから来たものか、今ならある程度は想像できる。一つは鄧雲卿が「魯迅と北京風土」で記述しているような、北京の瑠璃廠の画棚でカレンダーのようにつるして売られていた膨大な贋物と無名画家の山である。もう一つは紅衛兵に燃やされずに没収された分で博物館などにいれる価値がないとされた贋物と主として清末民国の土豪劣紳・地主階級の堕落芸術で、広州交易会などでどんどん輸出されていた。


by reijiyam | 2015-03-30 08:49 | 中国絵画入門

玲児の中国絵画入門 4 吉村 貞司の煽り




大学の教養部のころに、中央図書館でレポートの参考書を漁っていたとき、

吉村 貞司: 中国水墨画の精髄―その逸格の系譜 (1978年) をみつけた。

吉村 貞司 (よしむら ていじ、1908年9月24日 - 1986年1月4日)は、日本の文芸評論家・美術評論家で著作集まで刊行されているようである。
この東文研のデータがわりとよくまとまっている。
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10274.html

この本は後半部は中国絵画じゃなくて日本画や日本の画壇のことが書いてある。

この本は、煽りの多いプロパガンタ的な本だが、フランスの5月革命以降学生運動があった当時ではさほど違和感はなかった。梅原猛すら文化大革命を評価して「倫理性の回復」とか美化した文章を書いていた時代である(REF 哲学の復興 講談社)。

 優れた画家は、皆、体制に反抗して山中に隠棲自給自足をしながら自然を観察して名画を描いた、ということになっている。また清初の画家たちは、皆、反清運動の闘士で、絵画に政治的反抗を秘めたということになっている。正直言ってデタラメな本であるが、2つ とてもいいことが書いてある。


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 五代北宋時代の荊浩、関同、范寛、許道寧の作品がいかに素晴らしいかを力説し、范寛の渓山行旅図(台北國立故宮博物院、イメージ)の良さを示してくれたことである。特に右下、極小さなロバのキャラバン・旅人たちの列(CLICKして拡大しないとみえないと思う)に注目して、この巨大な山岳の空間性を認識するように誘導したことがありがたかった。前回のサリバン先生の本では右上の滝に注目しているが滝の描写は日本絵画にも多いのでさしたるものとは思わなかった。この吉村氏の本で、私も渓山行旅図をみてみたい! という気になった。入門書というのはこういう気持ちを起こさせるものではないだろうか? そういう意味で間違いだらけでデタラメの多い本ではあるが、私には役に立った。

 もう一つよかったのは、明末清初の新安派の画家 戴本孝(1621-1693)を紹介してくれたことだ。このぼやっとした特異な表現方法は興味深い。この本で紹介していたのは、米国の翁萬戈コレクションの画册の一つだった(下)。中心部の巌窟に座った人を描いているところから、画家の孤独と隠れ潜む心情を推定しているのだが、他の絵をみてみると、もっと開放的な作品や色合い豊かな作品も多く、決めつけはよくないなあ、と思うところである。しかしながら、吉村氏が注意しなかったら、この 戴本孝に注意することはずっと遅れただろう。ちなみに京都国立博物館の西上実氏は中國繪畫史論集 : 鈴木敬先生還暦記念の中で「戴本孝について」という専門論文を書いていて私もコピーをとって珍重していた。


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 この本のさらなる欠点としては、やはり鑑識が甘く、故宮名画300種とかいうような古い図録の画家名同定を鵜呑みにしていることだ。例えば、この本に北宋山水として図版となっている下の伝許道寧の雪景 も十七世紀以降の模倣作である(台北國立故宮博物院)。



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by reijiyam | 2015-03-29 12:08 | 中国絵画入門

玲児の中国絵画入門 3 本を読んでみた

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 今日でもそうだが、1970年代では、なかなか中国絵画の専門書はない。

で、1970年代後半の当時、たまたま、

下店 静市(しもみせ しずいち、1900年2月16日 - 1974年6月26日)の
支那絵画史研究 (富山房 1934年)を読んでみた。

なにせ「支那絵画」の専門書というのだから、期待したのである。ところが、分厚い割には、魅力的な図版が少ない。まあ、戦前の出版でモノクロなんだからしょうがない。しかしもっと違和感があったのは、「唐宋の絵画」を異常にもちあげ、元以降を「堕落」としてけなす姿勢である。清の王原祁なんてボロボロにけなしている。まあ、現在の私も王原祁をそう好きなわけではないが、そこまでいわなくても、という感じがする。


 だいたい、絵画の本を読むというのは、魅力的な作品を知りたいというのが動機の一つだろう。それが、あまりない。だいいちその素晴らしい「唐宋の作品」で感心できる作品があまり紹介されていないのだ。唐時代の有名画家の作品なんか何も残されていない、というのだからしょうがないが、宋時代の作品もたいしたことがない。作品がないのになんで「唐宋」の作品を褒めることができるのか不思議という他はない。存在しない「唐宋」の作品をほめあげ、一応存在する「元明清」の作品をけなすというのは、戦前の中国絵画の記述の通弊で、「絵画のない文献だけの美術史」などといわれたものである。それでも、この本の中で、一つだけ魅力的で、よく覚えているのが、現在、台北の國立故宮博物院にある 伝燕文貴 秋山琳宇 図(165x58cm)で(イメージ)、これは著者:下店 静市氏も北宋時代の傑作として、最高級にべた褒めしている。ところが、現在ではこれは十七世紀の模倣作・贋物ということになっていて、ほとんど展示されないのは残念だ。絵としては面白いのだから、なんとか救いようがないかなと感じるところである。


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このころ、図書館で借りて読んだものに、

中国美術史 (新潮選書) 1973/9
マイケル・サリバン, 新藤 武弘 (翻訳)

がある。現在もっている本(イメージ)は、ずっとあとで東京で買った。「諸橋蔵書」の印がある本だから、あの大漢和の著者の所蔵本かもしれない。

これはオックスフォード大学のサリバン先生による中国美術史 の定番本の翻訳で本当によくできている。多少の補遺で現在再刊しても充分役立つ本だ。新潮社には再刊を要望したい。 翻訳の底本は、1973年版の英語版とほぼ同じもの(図版は違う)である。実はサリバン先生が直接訳者に送った原稿なので 文章も1973年版本と絶対同じかというと違うところがあってもおかしくないが、読み比べるとほぼ同じといっていいと思う。

当時は、実はざっと読んだだけだったように思う。一見、平凡な概論書・教科書にみえるこの本の結構深い面白さを全部吸収したとはいえない。どちらかというと絵画部分ばかり読んでいたような記憶がある。

 かなり影響を受けたのは、贋物・模倣作・補修の鑑定が重要で、充分批判的にならないと研究自体なりたたない、という示唆である。

たとえば、、

234p> 現存する古典的絵画の多くが、様々な過程を経て原本か模本かを知るすべもなくなっており、せいぜいある画家ないしある時代の画風を示しており、本物とみなせるだけ古そうで質もよさそうといえるくらいである。時には、あとから同じ絵のもっと調子の優れたものが出現してはじめて模本とわかることがある。この分野では鑑定は最も難しく、いまだかって騙されたことのない専門家はなく、近年の欧米における傾向としては、中国人や日本人の鑑識家にばかり頼っていられない気持で過剰な注意を払うようになってきている傾向にある。

295p>かれ(仇英)の見るからに楽しい絵画は中国でも西洋でも愛好され、そのためもあって中国美術史上で王石谷に次いで贋物の多い作家であるといえよう。

329p>王石谷は前代の巨匠たちを模倣することにとくに才能を発揮しており、台北國立故宮博物院やそのほかのコレクションにある五代や北宋の山水画のうちのかなりのものが、かれの作品であることにほぼ間違いない(おそらく、上記の燕文貴もその類だろう)。

 別にサリバン先生は奇矯、激烈な批評家でもなんでもなく、穏健で、むしろ点が甘い英国紳士オックスフォードの教授なのだから、いかに中国絵画の世界がすざましいものかがわかる。

 こういう記述を読んだ後では、鑑賞の仕方が大きく変わるはずである。
 しかし、ナイーブな学生は、まだまだ、そこまで徹底しなかった。

by reijiyam | 2015-03-29 05:47 | 中国絵画入門