玲児の中国絵画入門  17  宋元画 問題

  

 ここで、ちょっと、前に挙げた鳥瞰図という5項目に立ち戻ってみる

 1.北宋時代の山水画と花鳥画と白描画、
 2.元末四大家(黄公望、呉鎮、王蒙、倪雲林)、
 3.明中期の蘇州四大家(沈周 文徴明、唐寅、仇英)
 4.明末清初の爆発的な多様化
 5. 乾隆アカデミズムと揚州派の時代

 南宋時代が抜けていて、明前期の載進などのいわゆる浙派も無視されている点が気になるかもしれない。
実は意図的にそうした。
 それは、日本人が昔(あるいは今でも)尊重した「宋元画が最高」という見方を一時的に破壊したほうがいいと思ったからである。
この「宋元画」の実体が「南宋から元、明初」の「水墨画・花鳥画」であったからだ。それも水墨画は南宋末の牧谿などの禅宗寺院関係のもの、花鳥画は小品で茶席にかけるのに好適な精緻な作品が好まれた。
 ただ、南宋画といっても大きなものは殆どないし巻子本もない。元時代といっても、趙子昴や元末四大家系統の絵はなく、禅林関係の水墨画が多い。また明時代前期のいわゆる浙派の絵画が宋画というふれこみで輸入されたことも多かったようである。
 そういう当時のコレクションの実体を覗く窓として、鎌倉円覚寺の塔頭にコレクションされた書画や器物の目録:佛日庵公物目録がある。これは、南北朝時代貞治二年同四年 足利義満が将軍になる少し前の記録である。


 絵画鑑賞の場が茶席になった結果、足利義満のころの豪華で放胆な茶会はともかくとしてわび茶の三畳の席では大きな絵や長い巻物など観賞することは不可能である。そういうものをうまく切断トリミングして茶席にむくものに仕立てることが流行った。
 そういう過程を経て、現代まで多くの優れた作品が日本に伝わり、それらが日本人の中国絵画のイメージを形成したのは事実である。

  まず、牧谿の観音猿鶴三幅対(京都 大徳寺、 高172cm)だろう。これは長谷川等伯はじめ多くの画家に影響を与えたものだが、確かに重厚な傑作だと思う。

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一方で、花鳥画としては、李テキの紅白芙蓉図(東京国立博物館 25.2x25.5cm ACE1197)、これはなんのかんのいってもやはり傑作だろう(imageは「紅」のほう)。

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 ただ、禅林関係の水墨画が多かったせいで「水墨画」が中国画の代名詞になってしまった。ところが純粋な水墨画は中国絵画には少ない。たいていは淡彩併用である。それで明清の中国画をみると拒否反応を起こすという変な風潮が生まれる。 また、相当劣悪な絵画が「宋元画」というふれこみだけで尊重されるという奇妙な副作用もでた。

 例えば、江戸以来の中国画小品収集の代表である
唐絵手鑑筆耕園(六十図)を覗くとわかる。

良い作品もあるが、花籠図や鼠図などは、なんでこんなものが入っているのかと思うくらいである。写真より実物はもっとひどい。

馬麟は 根津博物館の小幅(縦51.4cm 横26.6cm)が 日本で有名だが、

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台北 國立故宮博物院の
馬麟 靜聴松風は、227x103cmという超巨大で,全然違う。。

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  いわゆる南宋の絵画、宋元画でも、日本での観念とはどうも違うんじゃないか?と思うんですよね。
 結局「お茶に使えるかどうか」で絵画の価格が左右されてしまう市場に永く慣れてしまうと、「宋元画」というだけで、なんかオーラができてしまうんで、それ以外の中国絵画は「高く売れない」「商売にならない」ものになるのね。 まあ、お茶の人はそれでいいんじゃないの。
 ただ、中国絵画全体を観る場合は、日本の絵画史全体をみるときに「琳派」しかみないようなものですね。
勿論琳派は素晴らしいがそれ以外にも大きな活動があるわけなんですね。

  まあ、南宋時代の画院で最も特色があるのは、夏ケイが描いた渓山清遠図巻(台北國立故宮博物院)のような画風でしょうね。雪舟が学んだ画風です。これは模本だという説もありますが、ネルソンの十二景図巻よりはずっといいでしょうね。前、雪舟展で十二景図巻の本物が展示されているそのすぐ上に、この渓山清遠図巻の写真が展示されておりました。写真でもよほど十二景図巻より迫力があったのには驚きでした。

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# by reijiyam | 2015-04-29 15:42 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 16 明末清初の爆発的な多様化 その2



明末清初の絵画を語るとき、

 八大山人などの明の王族の末や、明の官吏で清朝になって野へ下った人などを取り上げて、「画に清朝への抵抗を表現した」だのと解説し、挙げ句の果てには「画家たちが抵抗運動を語り合った」などと想像して観てきたように語る人が少なくない。

 そりゃ、文字通り政治活動をやった人もいるかもしれないし、明が滅んだとき自殺した倪元ロのような人もいる。また、李自成が北京を落としたとき餓死した崔子忠のような、動乱の犠牲になった画家もいる。反清の軍を率いて軍事行動をして破れた人もいる。

 しかしながら、もっともよく語られる八大山人にしてからが、雍正末乾隆初めのオーソドックスな画史「國朝画徴録」のトップに挙げられて絶賛されているのである。下に原本イメージではっきり示す。

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 政治活動への弾圧が厳しかったといわれる雍正帝時代に書かれ出版された作品でトップに出ている画家が反清の活動家なんてことはありえないでしょう。そんな本ならとっくに禁書になっている。

明の王族であった八大山人は康煕17年ごろ、臨川の役所・邸宅に招かれて事実上監視下・軟禁におかれた。これは、そのすぐ前に三藩の乱の大戦争があったからでしょう。明王族を擁立して反乱されたら困りますからねえ。八大山人の軟禁と三藩の乱を関係させて観ることができないなんておかしいよなあ。八大山人の故郷でずっといてた南昌は三藩の乱では最前線だった。


 結局、明の王族の末裔の画家=清朝で弾圧監視される=反抗の意思が絵画に反映される という単純化された図式・先入観があるんだな。その背景に辛亥革命前後の「滅満興漢」の民族主義にのって、清初の画家で明の王族画家や明時代から画家やってた人のなかでそれらしい人々を反清政治活動家に仕立て上げたのでしょう。たぶん中華民国時代の知識人たちの誤解なんじゃないかな。

 おまけに1970年代にありがちな、
「芸術家は反体制でなければならない」「造反有理」「人民に奉仕する革命的心情のない芸術はダメ」などという先入観から、明時代から生きてきた画家や明王族末裔の画家を反清抵抗勢力にしてしまった。

一種の捏造ですね。

  明の王族の末裔で、優れた画家だった石濤(道濟)なんて、康煕帝に2度も拝謁しているし、満州人貴族をパトロンにしてましたしね。ちなみに石濤の絵画は明末清初というより後の揚州派の先駆という感じがある。揚州派の人で石濤を尊敬する人は多い。

   陳洪綬は、明滅亡後「悔遅」(遅かったのを悔やむ)と号をつけて、明滅亡に何もできなかったのを悔やんだ格好を示したが、それはかっこつけじゃないかなあ。もともと「無類の女好き」「酒好き」の人だったから、そんなの宣伝でしょ。


# by reijiyam | 2015-04-27 10:32 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 15 明末清初の爆発的な多様化 その1


中国絵画や書道作品の話で、よく明末清初という言葉が出てくる。明王朝が滅び、清王朝が成立する時代であるが、明王朝は李自成の反乱軍によって北京が陥落し崇禎帝が自殺して滅んだわけで、清軍が滅ぼしたわけではない。もっとも、その後、清軍が侵入し、全土を征服する過程で南京などの明の王族政府との衝突、様々な戦闘や虐殺があったわけだから、清軍の征服戦争はあったわけだ。

 その前の万暦の後半、天啓崇禎年間と清征服後の順治康煕年間全版ぐらいに、実に多様な作品が爆発的に生産された。しかも時代が比較的近い(江戸初期と同時代)ので、そうとうの量の絵画が残っていて実物をみることができる。ただ、明末清初というと短い限られた時代のような感じがするが、よく考えてみると、1610年ごろから1700年ごろの約90年である。1世紀に近い時間であり、3-4世代が交替しているわけで決して短くはない。大正初めから現代までの間にどれだけ日本の美術が変わったかを考えると短い時間とはいえないと思う。

この1世紀の初め1610年ごろの呉彬の山水画は、まるで怪石を拡大したもののようである。ここまで奇怪で非現実的な山岳はありえないだろうが、それでも面白いことは確かである。呉彬は怪石の愛好家の画家でもある官僚 米萬鐘のために「怪石図巻」まで描いている。
呉彬(谿山絶塵  橋本コレクション)

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 もう1世代あとの 陳洪綬、崔子忠は、下のような不思議な人物故事画を描いている、これは唐以前の画風を蘇らせようとする試みというか、唐以前の絵画と称する贋物に触発された発明というべきか、面白い


陳洪綬(宣文君授経図(部分) クリーブランド美術館)、
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崔子忠(伏正授経図  上海博物館)
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一方、康煕年間には法若真(1613-1696)のエネルギーに満ちた天地創造のような山水画があり

黄山木葉図巻(東京国立博物館)の末尾
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この時代の末尾を飾る最高峰として、八大山人の安晩帖(京都 泉屋博古館)の高邁な水墨画(康煕33年ごろ)がある。

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 安晩帖


   実は、八大山人は、王時敏や惲寿平より長生きしていて、この安晩帖は下の惲寿平の作品(大阪市立美術館)より後に描かれたものである。八大山人は明の王族だったわけで、いかにも明末清初を体現しているかのようで、惲寿平はむしろ後の時代に属しているようにみえるが、事実は違う。これらが全て並行的に生産されていたのである。



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# by reijiyam | 2015-04-26 13:33 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 14  仇英





鳥瞰図で文字だけであげたものを実例で絵解きする続き。
ただ、これも、あまり しっかりした解説ではなく、ゆるい感想程度ね。


  文徴明と交際もあった仇英(1494?-1552頃)は、純然たる職業画家ですが、逆にそれ故に個人的記録が少なく、文章には書きにくい感じがします。 割と早く亡くなっているようなので、晩年作というべきものはないでしょう。壮年作までが全てです。

  とにかく、美しい豪華な作品がたくさん残っており、人気も高いので、サリバン先生によれば、
>かれ(仇英)の見るからに楽しい絵画は中国でも西洋でも愛好され、そのためもあって中国美術史上で王石谷に次いで贋物の多い作家であるといえよう。
だそうです。日本にも仇英といわれる絵は結構ありますが、京都知恩院所蔵の奇跡的な双幅(金谷園図と桃李園図)を除けば良いものはないようです。強いていえば、かなり傷んでいますが東京国立博物館の山水画がまあ良いほうでしょう。

去年 台北國立故宮博物院であった仇英展は残念ながらいけなかったのですが、出展された作品はだいたい見ているようです。

   既に、玲児のの中国絵画入門 1 中国絵画のイメージ
で、仙山楼閣図(台北故宮)を挙げておきました。

 他の代表作としては、ネルソンの潯陽送別図巻と台北國立故宮博物院の東林図巻をだしてみます。潯陽送別ってのは白楽天の琵琶行の冒頭の部分ですね。シカゴの桃源図巻との関係がいわれていましたがシカゴのものはカラー図版でみる限りあまりよくないようなので、こちらをみなおしました。台北國立故宮博物院の東林図は、台北で似た絵柄のものと比較展示「伝移模写展」で実見して、その質の高さを感じましたので、そうとう良いと思います。

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  これらをみると仇英は、中国の資産階級上流階級が夢見る理想的生活を絵画として具現化しているもののようにおもわれます。そこには仏教的な極楽や道教的な仙境はなく、神秘性や彼岸へのあこがれ、超越的なものへの賛美はなく、至って現世的で即物的で豪華で、しかもある倫理性と審美性をもった生活・世界を画面に現実化しています。これが歓迎された理由ではないか?と思います。中南海でも愛好されそうですね。

  一方、巨大な水墨淡彩の人物画も描いています。下のイメージの桐蔭清話(台北國立故宮博物院)は、まさにそれで高さ2,7mもあります。
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  また、ケーヒル先生は、「江岸別意」(新藤武弘  小林宏光 訳)で
>仇英の他の作品と同様、画面上に表れていることがその意味内容のほとんどすべてなので、画中のことを具体的に説明することはできても、分析して論じるのは容易でない。
と書いているのは非常に深いところをついている見解だと思います。また、
>仇英が様々な画風を再生する多彩ぶりを見ると、仮に、項元汴がイタリアルネサンスの肖像画をかれに見せ、画材とそれに慣れるため一両日の時間を与えたならば、かれは十五世紀フロレンス貴族の格好をした項元汴の肖像を見事に描き上げたのではないかと思う。
とも述べていますが、これは、この本で一番印象的な文章でした。

  そういう仇英なので、個人的な顔が全くみえないんですね、絵に付属したサインと印章以外に、仇英の言葉・文章すら残っていないと思います。
  ただ一つだけ、気になるのは黄山谷の標準作 松風閣詩巻(台北國立故宮博物院)の末尾に仇英の印が2つあることです。ひょっとしたら、この劇蹟は仇英が掘り出して項元汴にもちこんだものなんでしょうか? その場面を想像すると、かろうじて仇英の顔がみえてくるような気もします。

# by reijiyam | 2015-04-13 08:47 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 13 沈周



鳥瞰図で文字だけであげたものを実例で絵解きする続き。
ただ、これも、あまり しっかりした解説ではなく、ゆるい感想程度ね。

文徴明の先輩で師匠でもあった沈周(1427-1509)は、かなり作風が違います。沈周は、前「玲児の中国絵画入門 11 元末四大家」であげた元末の黄公望の富春山居図を所蔵してまして、しかもその美しい模写本を自分で製作しています。台北でこの二本を同時に観賞する機会がありましたが、沈周の模写本も美しいものでした。しかもなんとなく沈周風があるんですね。つまり沈周は黄公望の忠実な模写ができず自分の個性がどうしてもでてしまうということなんですね。この個性というのはなんなんだろう? と思いました。一説には元末の呉鎮の影響があるといわれています。 

 2014年春に、 台北國立故宮博物院で開催された沈周展でみた沈周風の山水画で一番良かったのは
この策杖図でした。そうとう大きな絵なんですが、画家の人格がにじみ出ているような感じのする良い絵でした。
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 こういう沈周風の山水画は、歓迎され、蘇州の名所を描いたステロタイプの工房作?量産品?模倣作?が多量に残っています。下記のようなものがそういうものじゃないかと思います。

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 ところで、弟子ということになっている文徴明とは相当画風が違うのも面白いことです。沈周と文徴明が合作というか同じ画册に入っているもの(例、ネルソンアトキンスの画册)でも結構違います。



一方、沈周の作品にはこの猫の絵のような気楽で、しかも技法的に優れた作品もあるんですね。こういう「雑画」といわれる絵画は、その後、徐青藤や八大山人、揚州八怪への道を開いているわけで、結構ランドマークというかモニュメント的な作品だと思います。去年の沈周展でも大きな看板になってました。

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# by reijiyam | 2015-04-12 09:47 | 中国絵画入門 | Comments(0)