十七帖の翁萬戈本と中村不折本



2007年3月12日に
十七帖の翁萬戈本と中村不折本は同石(同版) 2007/3/12
http://reijiyamashina.sakura.ne.jp/17jho/17jho.html

という文章をアップしておいたが、


 最近、メトロポリタン美術館にあるこの翁萬戈本の写真画像をMETのサイトで得ることができて、
確実に同石であるという証拠を発見した。

下記 図版にある斜めの線が翁萬戈本と中村不折本で全く共通である。一方だけみてたときは紙の折れかとも思ったが、2つで共通だということは、元々の版のキズである。

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ただ、なんで末尾の「悦生」瓢箪印が一方にあって、一方にないのかはわからないが、加えたか除いたかしたのだろう??

# by reijiyam | 2016-08-14 11:05 | ニュースとエッセイ

玲児の中国絵画入門 20 乾隆アカデミズム

 
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乾隆帝時代の宮廷の絵画作品というのは、知っているようで知らないというか、中国絵画史のなかでどういうところに位置づけるかがよくわからない、という感じがする。

  私が色々考えた結果、2つの面をあげたら、捉えやすいのではないか?と思っている。

一つは玲児の中国絵画入門 19 四王呉惲 でとりあげた明末清初の四王呉惲が造った「新しい平凡」といえる総合様式を大きく拡大し、宮殿や邸宅の大壁画に適用されたものが、現物で多数確認できるということだ。明末の紫禁城にも巨大な壁画が多数あったはずだが、李自成の軍が北京を退去するとき紫禁城の宮殿を焼いたので、ほとんどなくなっている。

したがって、宮殿壁画{貼落といわれるポスターあつかいのもの}が多量に残っているのは、この時代のものである。

上のイメージは、
清 銭維城 棲霞全図 1760題、台北國立故宮博物院
銭維城(1720-1772)の作品で、224.9x158.5cmもの大きさだ。2メートル以上の高さがある。


もう一方は、郎世寧(カスティリオーネ 1688-1766)に代表される西洋画の影響である。
郎世寧は、イタリア人だから、これは中国絵画なのかという批判もありうるが、外国人主導とはいえ、郎世寧(カスティリオーネ 1688-1766)の弟子や追従者もいたようだし、一種の中伊合作でもある。

 前から思っていたのは、カスティリオーネ自体は油彩やテンペラ、フレスコの技術をもっていたはずである。油彩による作品らしいものは数点しかない。昔考えたときは、、材料がなかったのかな?と思っていたが、良く考えたら当時の画家は絵の具は自作していたはずである。既製品の絵の具なんか使っていない。 またキャンバスなども麻布なんだから北京でいくらでも調達できたであろう。顔料・乾性油なども皇帝の権力で利用できないはずはない。

  どうも、このような中国絵画と西洋絵画を融合したような様式技法は、郎世寧のまわりで創造されたものではなかろうか?

 郎世寧は宮廷にいた人だから、前述のような宮殿用の超大型の絵も多いわけで、

清 郎世寧(カスティリオーネ 1688-1766) 十駿犬茹黄豹 、台北國立故宮博物院
247.5x163.7cm

 こういうのがある。これは2メートル50センチちかくもある。


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そして、付随的なことだが、こういう西洋風中国画というのは広東などで量産され、どうも江戸時代の洋風画、例えば司馬江漢、そして北斎などに影響を与えた可能性があると思う。


一方、満州民族のセンスが色濃いような特異な作品に
平安春信Castiliogne Peking 68.8x40.8cm 1782題 北京故宮博物院

がある。

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# by reijiyam | 2015-09-21 18:34 | 中国絵画入門

メムリンク:影のある幻

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  ブリュージュのメムリンク美術館にある 1479年の自筆年紀があるヨハネ祭壇画(Dirk de Vosの呼び方に従う、古くは「聖カタリナの神秘的結婚」とも呼ばれた)は、メムリンクの代表作としてだれも疑わない傑作である。

web Gallery of ARTsのリンクを貼っておく

ただ、中央部画面や外側の肖像画には賞賛を惜しまない人も内面左右、とくに右翼のパトモス島の聖ヨハネの黙示録については、描写がなまぬるい、羅列的だ、煩雑だ、子供っぽい、ちっとも悲劇的ではない、などという貶辞がでてくるのが常であった。

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 この絵はベルギーを訪問したときは必ず鑑賞させていただくお気に入りの名画であるが、そういう貶辞にも一理はあると思っていた。

  だが、2001年にブリュージュのメムリンク美術館で見たとき以来、どうもこの右パネルの狙いを勘違いしていたのではないか? 結果的に成功しているかどうかは別として、かなり変わった試みをやっている絵画なのではないか?と思い直している。

 それは、水面に映る影の描写、を使って、パトモス島の聖ヨハネの幻を実体のあるものとして表現するということである。  西洋絵画でも、天使などを実体のある影をもった物体として表現することは少ない。あのえぐい描写のデューラーでも、それはやっていないようだ。あのボスの怪物たちにも概して影がない。もっともボスのパトモス島の聖ヨハネ(ベルリン)は静謐そのものだ。これもえぐい描写のカラヴァッジョにしても天使に影はつけていないようである。

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 この右翼、矢印で明示するような 騎士たちの影については、以前から指摘されてきた。少し上方には 燃える岩が水面に落ちるところが描かれており、まさに水におちようとするときの水面の影が描かれている。また遠方の巨人の影も描かれている。しかし、これらは、図式的な感じもするものである。

私が震撼したのは、丸い虹の神の空間の前で香を祭壇に焚いている天使の影である。


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 まさにその祭壇の底と人物まで水面に映っている。神と聖人たちを囲む虹色の円それ自体も一部水面に映っている。天使と祭壇の底というか支えている雲?を裏からみているのである。
  また、虹も水面に映っている。しかし、この底の方から覗く神の国という奇妙な感覚には震撼した。
 
  これほど、奇跡や天使を堅固な実体のあるものとして描いた・実感させようとした試みがあったであろうか?
しかも、黙示録には啓示・幻として書いてあるのだから、ここまで描く必要自体本来ないものなのだ。
この試みが成功しているかどうかはともかく、私としては感動した。

  フランドルの画家の後裔であった小説家J.-K. ユイスマンスに対して、米国の批評家ハネカーが評した「神秘主義を厳密に定義し得るもの、重さを量り、手で触れ言葉で証明できうるものと考えていた人物」という文章を、私は連想した。

 この影の描写は、小さな粗悪な図版ではまったく感知不可能であるので、19世紀以来あまり考える人がいなかったのも無理はない。

 できるだけ良い写真を使ったがそれでもまだ、明確に示したとはいえないが、とにかく主張しておく。



# by reijiyam | 2015-08-30 16:50 | ニュースとエッセイ

玲児の中国絵画入門 19 四王呉惲

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 ちょっと難しい問題を書いてみる。これは入門に書くことではないかもしれない。そうはいっても、ここを突破しないと近代までつながらないんだから、しょうがない。

 清朝の正統派 アカデミズムを造ったのは四王呉惲だといわれている。
 四王呉惲というのは、王時敏,王鑑,王キ (王石谷) ,王原祁 (おうげんき) ,呉歴,惲寿平 (うんじゅへい) の6人である。上の絵は、王時敏,王鑑,王キ (王石谷) ,呉歴の作品である。

   この四王呉惲は、実は皆、明末清初の人々で、清朝にしか生きていないという人はだれもいない。明が滅んだとき、王時敏は52歳,王鑑は46歳,王キ (王石谷)は12歳 ,呉歴は12歳,惲寿平は11歳、最年少の王原祁でさえ、1年ほど明朝を生きている。明末清初画家として有名な八大山人は18歳だったのだから王時敏,王鑑の息子の世代である。明王朝王族出身のいわゆる遺民画家石濤と比較してみる。石濤は、王原祁よりは年長だが惲寿平より若く、王原祁との合作まである。
  画風の違いから、いわゆる明末清初画家と四王呉惲を分け、四王呉惲を清朝盛期のほうに引きつけて考えがちであるが、画風の継承関係はともかく時代的には全く間違いで、すべて同時代の活動だと考えなければならない。

 次に画風については、「董其昌に従って古画を学び模倣し新味なし」というような批評が多いけれど、いったい、彼らよりも古い絵画で彼らのような絵画があったであろうか?? 確かに、古画をパラフレーズしたものは多いし、XXを模倣したというサインがあるものは多いのだが、画風でいうと全く別物で、直接的な先祖を指摘することは困難である。ただ、その後、清末中華民国時期まで、この四王呉惲の様式が膨大なエピゴーネンを生み、無難で正統な形式になり、重量トンで測ったほうがいいくらいの多量の似たり寄ったりの絵画が生まれたので、つまらない平凡などこにでもある中国絵画様式にみえるのである。ただ、彼らが標準化したのは、山水画の世界だけである。それ以外の分野では、惲寿平様式が花卉画で流行ったが、それでも標準化したというほどではなかった。ずっと後世の、雍正乾隆時代の揚州八怪や清末の海上派が主として山水画以外に新味を出したのも、こういう権威の圧力があったからだろう。


 私はこれを「 新しい平凡」と呼びたいと思う。一種の折衷様式であって、それが正統になる過程や立場は、日本の狩野探幽による狩野派の覇権確立と似ているようにも思う。狩野探幽と時代もほぼ同じなのは不思議というほかはない。また、さんざん悪口をいわれてきた19世紀フランスのアカデミックなサロン画家の立場にも似ている。

 狩野派は血縁と養子縁組と師匠弟子関係で組織を作ってきたが、四王呉惲はどうだろうか? 王時敏と王鑑は地縁、王キ (王石谷) と呉歴と惲寿平 (うんじゅへい)は殆ど同じ年齢で交流がある。 王原祁は王時敏の孫だ。ここだけは血縁ね。王キ (王石谷) の工房は康煕帝の御用画家になって権威になったし、 王原祁は宮廷で高官になったから、これは権威そのもの。この王原祁の画風だけが董其昌にいやに似ているのは偶然ではないだろう。

  四王呉惲は、古画の模倣の元凶のようにいわれているが、例えば下の王鑑の「倣李成」は、現代考えている李成のイメージからははるかに遠い。つまり当時既に李成の画風は解らなくなっていたか、倣李成というのは口実だけで勝手に描いてよいと思ったのか、そのどちらかであろう。

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 ただ、こういう模倣XXという看板が、後世に、単なる模写を作品あつかいしたり贋物つくりに正統性を与えたりして、山水画をどうしようもない沈滞におとしいれてしまったことも事実だろう。



# by reijiyam | 2015-05-24 21:29 | 中国絵画入門

玲児の中国絵画入門 18   董其昌と文人画

  明末の官僚書画家:董其昌(1555-1636)と文人画という問題をちょっと考えてみたい。

  中国絵画を語るとき、文人画という概念を振り回す人もいる。日本における、中国の文人画に対する概念として「中国の文人画というものは士大夫(文官官僚を中心とする読書人階級)によって代表される素人が描いた絵をさす」(REF.飯島勇 編集、 文人画、日本の美術第4号 至文堂 )
 だとすると、北宋時代の絵画のほとんどは文人画ではないし、有名な中国絵画の半分以上は文人画ではない。  
 こういう変な議論が横行するのは、中国において画に関する理論と実際の制作がかなり乖離しがちなことが原因である。
 例えば、北宋の画家かつ官僚であった郭若虚はその図画見聞志に「昔の優れた絵画は全て高位高官の人々や高潔な在野の教養のある隠者が描いたものだ」「人品が既に高いのだから気韻が高くならないわけはない。気韻が既に高いのだから絵に生動が出ないはずはない。」という階級が読書人でなければダメと主張しながら、その各論で絶賛している画家は多くは職業画家で下手すれば文盲に近い人もいあたかもしれないようなムチャクチャな矛盾を平気で記述している。
 このように、絵画史の初めのころから、「理想の画家イメージ」と現実が、かけ離れていたのであったが、実は明末までは理論は理論、実践は実践で相互に無視していたような状況だったように思う。

 ところが、明末万暦ー天啓年間に受験勉強の天才で文部副大臣にまで成り上がった董其昌がでて、理論に現実を合わせようとしたから、おかしなことになった。おまけに多様な絵画が輩出した明末において、董其昌は一つの新機軸を出したから、ここで「高級官僚の素人画家」が具体化したのである。おまけに董其昌は「書画の特技で暴利をむさぼっている」と非難されたぐらいだから、自分とその仲間の絵画流派こそが正統だと主張した。これは商売敵を撃滅するシェア争いのようなものだ。
 もっとも、確かに董其昌の作品には結構面白いものがある。

 この四十三歳、1597年に友人のために描いた婉孌草堂図は、そうとう変である。


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空間がおかしく、モノが宙に浮いて漂っているような感がある。なんとも不思議な絵である。ただ技術的にはさして優れているわけではない。こういう面白い絵ばかり描いているわけではなくどうということもない平凡な下手な絵ある。また代作もずいぶん多かったようだし、むしろ代作のほうが技術的には優秀な絵が多いような感じがする。 下の台北國立故宮博物院の奇峯白雲図なんて、何度もみているがどこが良いのかさっぱりわからない。

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 董其昌のプロパガンタの副作用として、「下手な絵でも高位高官の絵なら価値がある」ということになった。一方、董其昌の実人生をみると腐敗官僚そのもので、到底「人品が高い」とはいいかねるものであった。董其昌自身が彼の理論を裏切っているのである。董其昌のインモラルな快楽主義は明末の陽明学+禅学の影響のようにもみえる。あの李卓吾と意気投合した人だそうだ。ところが、清の康煕帝が董其昌の書画を好まれたので事態が悪化した。悪口が言えなくなり美化されたのである。そのために清時代はまあボロがでなかったのだが、「文人画が職業画家の絵画より優れている」というのは、もともとかなり無理な理論だったのだから、現代まで一部に残照はあるとはいえ、だんだん棚上げされるようになってきた。その有様は、既に、乾隆時代の方士庶の画論にもほのみえる. 「写実を軽視するような理論を振り回す人は絵が下手なんだ」とか書いている。

この件は、
文人画とはなにか


という文章にも書いておいた。

また、董其昌の悪行を暴いた著作として、福本雅一, 先ず董其昌を殺せ, 明末清初, 同朋舎出版, 1984, 8, 、及び「董其昌の書画、二玄社にも収録
がある。

実際、明末の高級官僚画家にはずいぶんな人が多かった、ある人は男色家だったし、ある人は清の軍勢が攻めてきているのに戦費を横領して芸者遊びに耽溺した。

高級官僚が「人品が高い」とは到底いえないのは、現在の中華人民共和国の幹部をみても想像できるのではなかろうか。



# by reijiyam | 2015-05-03 17:08 | 中国絵画入門