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玲児の中国絵画入門 19 四王呉惲

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 ちょっと難しい問題を書いてみる。これは入門に書くことではないかもしれない。そうはいっても、ここを突破しないと近代までつながらないんだから、しょうがない。

 清朝の正統派 アカデミズムを造ったのは四王呉惲だといわれている。
 四王呉惲というのは、王時敏,王鑑,王キ (王石谷) ,王原祁 (おうげんき) ,呉歴,惲寿平 (うんじゅへい) の6人である。上の絵は、王時敏,王鑑,王キ (王石谷) ,呉歴の作品である。

   この四王呉惲は、実は皆、明末清初の人々で、清朝にしか生きていないという人はだれもいない。明が滅んだとき、王時敏は52歳,王鑑は46歳,王キ (王石谷)は12歳 ,呉歴は12歳,惲寿平は11歳、最年少の王原祁でさえ、1年ほど明朝を生きている。明末清初画家として有名な八大山人は18歳だったのだから王時敏,王鑑の息子の世代である。明王朝王族出身のいわゆる遺民画家石濤と比較してみる。石濤は、王原祁よりは年長だが惲寿平より若く、王原祁との合作まである。
  画風の違いから、いわゆる明末清初画家と四王呉惲を分け、四王呉惲を清朝盛期のほうに引きつけて考えがちであるが、画風の継承関係はともかく時代的には全く間違いで、すべて同時代の活動だと考えなければならない。

 次に画風については、「董其昌に従って古画を学び模倣し新味なし」というような批評が多いけれど、いったい、彼らよりも古い絵画で彼らのような絵画があったであろうか?? 確かに、古画をパラフレーズしたものは多いし、XXを模倣したというサインがあるものは多いのだが、画風でいうと全く別物で、直接的な先祖を指摘することは困難である。ただ、その後、清末中華民国時期まで、この四王呉惲の様式が膨大なエピゴーネンを生み、無難で正統な形式になり、重量トンで測ったほうがいいくらいの多量の似たり寄ったりの絵画が生まれたので、つまらない平凡などこにでもある中国絵画様式にみえるのである。ただ、彼らが標準化したのは、山水画の世界だけである。それ以外の分野では、惲寿平様式が花卉画で流行ったが、それでも標準化したというほどではなかった。ずっと後世の、雍正乾隆時代の揚州八怪や清末の海上派が主として山水画以外に新味を出したのも、こういう権威の圧力があったからだろう。


 私はこれを「 新しい平凡」と呼びたいと思う。一種の折衷様式であって、それが正統になる過程や立場は、日本の狩野探幽による狩野派の覇権確立と似ているようにも思う。狩野探幽と時代もほぼ同じなのは不思議というほかはない。また、さんざん悪口をいわれてきた19世紀フランスのアカデミックなサロン画家の立場にも似ている。

 狩野派は血縁と養子縁組と師匠弟子関係で組織を作ってきたが、四王呉惲はどうだろうか? 王時敏と王鑑は地縁、王キ (王石谷) と呉歴と惲寿平 (うんじゅへい)は殆ど同じ年齢で交流がある。 王原祁は王時敏の孫だ。ここだけは血縁ね。王キ (王石谷) の工房は康煕帝の御用画家になって権威になったし、 王原祁は宮廷で高官になったから、これは権威そのもの。この王原祁の画風だけが董其昌にいやに似ているのは偶然ではないだろう。

  四王呉惲は、古画の模倣の元凶のようにいわれているが、例えば下の王鑑の「倣李成」は、現代考えている李成のイメージからははるかに遠い。つまり当時既に李成の画風は解らなくなっていたか、倣李成というのは口実だけで勝手に描いてよいと思ったのか、そのどちらかであろう。

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 ただ、こういう模倣XXという看板が、後世に、単なる模写を作品あつかいしたり贋物つくりに正統性を与えたりして、山水画をどうしようもない沈滞におとしいれてしまったことも事実だろう。



by reijiyam | 2015-05-24 21:29 | 中国絵画入門

玲児の中国絵画入門 18   董其昌と文人画

  明末の官僚書画家:董其昌(1555-1636)と文人画という問題をちょっと考えてみたい。

  中国絵画を語るとき、文人画という概念を振り回す人もいる。日本における、中国の文人画に対する概念として「中国の文人画というものは士大夫(文官官僚を中心とする読書人階級)によって代表される素人が描いた絵をさす」(REF.飯島勇 編集、 文人画、日本の美術第4号 至文堂 )
 だとすると、北宋時代の絵画のほとんどは文人画ではないし、有名な中国絵画の半分以上は文人画ではない。  
 こういう変な議論が横行するのは、中国において画に関する理論と実際の制作がかなり乖離しがちなことが原因である。
 例えば、北宋の画家かつ官僚であった郭若虚はその図画見聞志に「昔の優れた絵画は全て高位高官の人々や高潔な在野の教養のある隠者が描いたものだ」「人品が既に高いのだから気韻が高くならないわけはない。気韻が既に高いのだから絵に生動が出ないはずはない。」という階級が読書人でなければダメと主張しながら、その各論で絶賛している画家は多くは職業画家で下手すれば文盲に近い人もいあたかもしれないようなムチャクチャな矛盾を平気で記述している。
 このように、絵画史の初めのころから、「理想の画家イメージ」と現実が、かけ離れていたのであったが、実は明末までは理論は理論、実践は実践で相互に無視していたような状況だったように思う。

 ところが、明末万暦ー天啓年間に受験勉強の天才で文部副大臣にまで成り上がった董其昌がでて、理論に現実を合わせようとしたから、おかしなことになった。おまけに多様な絵画が輩出した明末において、董其昌は一つの新機軸を出したから、ここで「高級官僚の素人画家」が具体化したのである。おまけに董其昌は「書画の特技で暴利をむさぼっている」と非難されたぐらいだから、自分とその仲間の絵画流派こそが正統だと主張した。これは商売敵を撃滅するシェア争いのようなものだ。
 もっとも、確かに董其昌の作品には結構面白いものがある。

 この四十三歳、1597年に友人のために描いた婉孌草堂図は、そうとう変である。


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空間がおかしく、モノが宙に浮いて漂っているような感がある。なんとも不思議な絵である。ただ技術的にはさして優れているわけではない。こういう面白い絵ばかり描いているわけではなくどうということもない平凡な下手な絵ある。また代作もずいぶん多かったようだし、むしろ代作のほうが技術的には優秀な絵が多いような感じがする。 下の台北國立故宮博物院の奇峯白雲図なんて、何度もみているがどこが良いのかさっぱりわからない。

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 董其昌のプロパガンタの副作用として、「下手な絵でも高位高官の絵なら価値がある」ということになった。一方、董其昌の実人生をみると腐敗官僚そのもので、到底「人品が高い」とはいいかねるものであった。董其昌自身が彼の理論を裏切っているのである。董其昌のインモラルな快楽主義は明末の陽明学+禅学の影響のようにもみえる。あの李卓吾と意気投合した人だそうだ。ところが、清の康煕帝が董其昌の書画を好まれたので事態が悪化した。悪口が言えなくなり美化されたのである。そのために清時代はまあボロがでなかったのだが、「文人画が職業画家の絵画より優れている」というのは、もともとかなり無理な理論だったのだから、現代まで一部に残照はあるとはいえ、だんだん棚上げされるようになってきた。その有様は、既に、乾隆時代の方士庶の画論にもほのみえる. 「写実を軽視するような理論を振り回す人は絵が下手なんだ」とか書いている。

この件は、
文人画とはなにか


という文章にも書いておいた。

また、董其昌の悪行を暴いた著作として、福本雅一, 先ず董其昌を殺せ, 明末清初, 同朋舎出版, 1984, 8, 、及び「董其昌の書画、二玄社にも収録
がある。

実際、明末の高級官僚画家にはずいぶんな人が多かった、ある人は男色家だったし、ある人は清の軍勢が攻めてきているのに戦費を横領して芸者遊びに耽溺した。

高級官僚が「人品が高い」とは到底いえないのは、現在の中華人民共和国の幹部をみても想像できるのではなかろうか。



by reijiyam | 2015-05-03 17:08 | 中国絵画入門