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抱残守欠 石門のマイナーな漢隷磨崖

石門頌や開通褒斜道刻石で有名な石門の磨崖に、

  李君通閣道磨崖、あるいは右扶風丞[木建]為李□表という磨崖刻石がある。一応石門十三品にはいってはいるが、摩滅がひどい上にあまりマイナーなのでろくに影印もないぐらいである。
なんで、こんなものに興味を持ったかというと、昔、タダでもらった拓本があって、これが清末の呉大徴がこの刻石を重刻したものの朱拓であった。ずいぶん汚れた装幀だったのでやっかいもの扱いだった。重刻のうえに傷んで汚れていたのであまり珍重されなかったんだな。長崎にきてから、ようやくこのような折り本仕立てにしてようやく捨てられる危険からは逃れたといえる。
 呉大徴は現地で刻石をみ、蘇州で自ら重刻したぐらいだから、かなりいれこんでいるのだろう。楊淮表記のような感じの字ではあるが、かなりたよりない。


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最近偶然入手したこの原拓もある。いうまでもなく、重刻もってなきゃわざわざ入手はしなかっただろう。
 こちらでは上にある線の上に1字文字がある。「表」のように読めないこともないので、増補校碑随筆は「額がある。額は『表』字だけが残っている。」と書いている。この「表」字を根拠に名称を「右扶風丞李[木建]為李□表」としている。

 ひどく摩滅しているので、重刻や釈文を頼りに読むと、なんとなく読めるようなきがする。これも本末転倒といえばそうだ。

増補校碑随筆では「壊れた」と書いてあるが、漢中博物館に移設されているようだ。ただ、現地の研究者らしい鄭榮章の本では上の『表』1字については何も書いていないので、ひょっとしたら移設のときかそれ以前になくなったのかもしれない。それを考えるとこういう旧拓の価値もないとはいえないだろう。


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by reijiyam | 2011-10-30 08:19 | 蔵書

朱曼妻買地券 再

まえ、アップしたが、もっと良いイメージを作成したので再度アップしてみる。
朱曼妻買地券
http://reijibook.exblog.jp/937665/
神州大観 10号( 1916年6月20日)のコロタイプ図版がソースだが、
そこに添えられた  トウ実氏の記録によると::
 光緒庚子に浙江省平陽県南郷鯨頭村石峯下山麓で、村長が墓を作っているとき出土、村人の陳公翰君がわたしにこの拓を送ってくれた。その後行方不明になった。

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by reijiyam | 2011-10-29 16:27 | 蔵書

御製生春詩

御製生春詩

緑に染めた紙に金箔を散らすという豪華な紙を使ってます。高さ11.8cm  幅 10.3cmx2

この輝きを何とかとらえようとした写真です。少しは迫っているかなあ。。

書いた人の董誥(1740~1818) というのは、下記のような一流官僚なのですが、豪華で穏健、しかも小さいくせに筆意がある、悪口のいいようがない整った楷書です。字の幅が13mmぐらい。

 ちなみに確実な書が多数残っていますので、比較したら、全く同じ書風クセがありますのでまず間違いないでしょう。

::  字は雅倫、号は蔗林。浙江省富陽の人。董邦達の子。乾隆年間に進士に及第した。家学を継承し、書画に巧みで、乾隆帝に知遇を受けた。乾隆コレクションの題跋には、彼の書を多くみることができる。乾隆三十六年(1771)、値南書房に入り、内閣学士に累進し、工部侍郎・戸部侍郎を歴任した。
『四庫全書』編纂の副総裁をつとめ、また『満洲源流考』を編集した。四十四年(1779)、軍機大臣に抜擢された。五十二年(1787)、戸部尚書に任ぜられた。のちに権臣の和?による排斥を受けて、国史館副総裁とされ、実録の編纂にあたった。和konが誅殺されると、軍機処に入った。嘉慶年間の書風をリードしたと謂われる。絵画においては、伝統を墨守し、新味は無い。嘉慶十四年(1809)、上書房総師傅となった。十八年(1813)、天理教の乱の鎮圧のための軍務にあたった。

 板表紙の刻字がやけに上につりあがっているので、修理のために、板を切ったのかと思ったこともありますが、これが「御製」の特徴なのですね。これ以上上はない, 上に何も書けないようにわざわざこうやっているわけです。台北故宮にあるものも皆そうなっています。

さて、この御製は乾隆帝?嘉慶帝? また何時ごろの作品?
これについて、ネットで重要な情報を得ました。

 http://www.epochtimes.com/b5/11/2/17/n3172842.htm
《京師生春詩意図》軸 清乾隆三十二年(1767年)徐揚繪 絹本設色,256cm x 233.5cm
北京故宮博物院

自 題:乾隆三十二年冬,御制生春詩二十首,命小臣徐揚匯繪全図, 莊誦之下,仰見我皇上敬天順時,尊親賜福,孕含萬有,綱舉百端,自朝廷以及閭閤上下,神情 體察,咸周興會所至,拈毫立就,無非太和洋溢,盛德充周,抒性靈而彰至治誠,與乾坤合撰萬物同春矣。臣資質愚鈍,未能圖寫萬一,幸蒙指示詳明,敬謹揣モ(模), 四閲月而始成。禮明樂備,昭盛世之文章,雪霽雲蒸,羨陽春之祥瑞。祗縁葵小困之篤於向日幾忘,管見之限於窺天謹?愚忱,上呈睿鑒。臣徐揚拜於稽首敬跋。』 鈐『臣徐揚』、『筆沾春雨』印二方。

 宮廷画家が描いたのが乾隆32年ですから、この詩は乾隆御製で、乾隆32年よりは後に制作されたものだと推定できます。まあ、宮廷にはいった乾隆36,7年ごろじゃないかなあ。


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by reijiyam | 2011-10-25 11:28 | コレクション

クリーブランド美術館  雲山図巻の自題


 敦煌本の偽写本のことを読んでいたとき、「偽写本をもとに論文を書くと、全部が無駄になって崩れ落ちてしまう」というような記述があった。絵画においても偽物を真蹟として論をすすめると危険きわまりない。勿論、偽物は本物に似せないといけないことが多いので画風など類似しているという期待はあるし、題跋印章までみんな丸写ししてしまうすざまじい偽物も中華民国期にはあって、まあこういうのは、本物が消滅してしまったあとでは、ある種の資料にはなるわけである。

 いまや原発報道で悪名を馳せ、信用失墜した感のある東大の、小川教授などがとりあげていた 米友仁「雲山図巻」(クリーブランド美術館)http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9f/Cloudy_Mountains1.jpg
にも重要な疑義がある。

 肝腎の米友仁の題字が真蹟ではないようにみえるのだ。他の米友仁書と比較した表を1998年に作って確信した。字形書風がかなり違う。また、北京・大阪・上海の共通性がめだつ。北京の図巻は実見したとき、本体の絵は模写のようだが、跋はひどく傷んで紙質も違い真蹟にみえた。上海の図巻は絵・跋ともに良いようだ。大阪のは断片の切り貼りみたいだが一応古い。
 その後、某教授にも表を送って意見を乞うたが、賛意を得ていた。じゃいったいクリーブランドの題は誰が書いたんだ。また絵は誰が描いたんだろう?

  ひさしぶりにノートをひっくりかえしてとりだしてみた。今ならもっときれいな図版で作成できるだろうが、忘れてしまうといけないのでアップしておこう。

 この絵では自題の位置が他の米友仁画と比べておかしい。他のは大抵絵のあとにあって絵の上にはない。大阪市立美術館のものは明らかに切り貼りしたものだ。もとは絵の後ろにあったのだろうし、絵自体断片のようにみえる。

クリーブランドの雲山図巻は自題が失われたので、オリジナルの文から写して書いたのか? 絵も含めて後世のものなのか?どうもわかりにくい。どちらにせよ米友仁の基準作にはすることはできないだろう。

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by reijiyam | 2011-10-23 12:31 | ニュースとエッセイ

抱残守欠 宣和畫譜

抱残守欠っていうのは、「旧習にとらわれ新しいものを受け付けない」という悪い意味らしい。ただ。明末清初の顧炎武に漢儒が断片も大事にして古代文献を守った良い意味で使っている例もあるらしい。
 当方としては、清末としては進歩的だった劉鐵雲が抱残守欠斎を名のった先例に従いたい気分だ。
 そういうスタンスのためか、また高価な完本を買う金がないせいか、貧架には残本端本や残本を修理したものが多い。どちらかというと完本のほうは古本屋に売ってしまいがちで、自分が修理した本は愛着があるので手元に残しがちである。また、自分が修理したものには、まあ少しは伝世に貢献しただろうから、という意味で蔵書印を押すこともある。


例えば、この、
宣和畫譜 は巻頭が何頁もなくなっていたので、巻頭は中華民国期の箋紙で宋版本を木版影印したものがあったのでそれで補った(橙色の紙)。その後の頁は、東京の有栖川図書館にある別本から文章をメモして、改めて他の本から自分で筆で写して補った。少しは様になったと思う。


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by reijiyam | 2011-10-20 09:16 | 蔵書

天寿国繍帳と敦煌写本

 中宮寺の天寿国繍帳について、敦煌出土の隋時代の写経奥書に「天寿国」という用例があるという説がNHKなどでさかんに吹聴されているようだ。実はこの写本もしくは奥書が偽物であるという疑惑が大きい。最低でも「无(無の略体)寿國」と読むのが普通だろう。それなのに軽々しく吹聴するNHKの無教養・節度のなさはあきれかえるばかりだ。

NHKに騙されている人が多いので、
ウィキペディアのノート:天寿国繍帳 でも 洗脳された人と議論しなければならなくなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%A4%A9%E5%AF%BF%E5%9B%BD%E7%B9%8D%E5%B8%B3


最近、オリジナルの行方という本に
http://heibonshatoday.blogspot.com/2010/03/blog-post_12.html

また、この偽写本?の問題がでたが、写真図版がないので議論が空回りしやすい。

できるだけ大きな図版を紹介してみる。

三井文庫で実際に観察したときは、とにかく紙の色が不自然だと感じた。
また、本文は北魏延昌2年の経典で、それを隋時代に法会で読んだときの奥書である。
北魏延昌2年の経典というのは敦煌写本にかなりある。ただ、これは一紙の行数が異例であり、延昌2年の写経生の奥書もまた異例である。おそらく大谷大学にある華厳経のようなものを模写したのではないか?


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by reijiyam | 2011-10-07 07:48 | ニュースとエッセイ

正倉院雑談 その1

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  正倉院の生き字引といった感じだった松島順正氏からの聞き書きを松本楢重氏がまとめて、松島氏に校正してもらって出版した本がある。この正倉院雑談、昭和23年、奈良観光事業株式会社出版部である。
  このなかで、昔、御物の修理に携わっていた人の話がでていた。こういう人のことは、忘れられやすいので、あえて記録しておきたい
**2012-03-03の追加

この正倉院雑談 初版は、昭和23年、奈良観光事業株式会社出版部 なんだが、1989年に学生社で「正倉院よもやま話」という名前で複刻したことがあるらしい。まあ、もう少し良い紙と印刷だろうと思う。

正倉院よもやま話
単行本: 243ページ
出版社: 學生社 (1989/05)
ISBN-10: 4311201389
ISBN-13: 978-4311201387

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奈良帝室博物館では明治43年から聖語蔵経巻の整理修復に手をつけたが、大正3年になって、東京でやっていた整理修復も一切奈良側で引継ぐことになり、現在の奈良國立博物館事務所構内本館南側の1棟がその事務と作業のため新築されたのである。


聖語蔵経巻修復は、奈良多門町の士族から経師屋になった西山定郎という人が年俸二四〇円と修理材料費年百円の予算で実際の作業を受け持ち、昭和13年まで続けて来たが、防空演習に出て風邪をひいたのがもとで死んでいったのは気の毒だった。
古裂の整理は経巻修理の西山さんも手伝って、粕谷某と最近まで従事していた廣岡徳松氏が女の助手一人を混へて仕事をはじめた。今日までに足かけ三十何年かかって。唐櫃十八合分の整理を終わったが、なほ未整理の分に唐櫃三十合ほどと、箱入りの分八つを残す。


(古裂の整理)
 大正三年奈良帝室博物館がこの大事業を開始して以来、足かけ三十五年終始古裂と取り組んでいたのは廣岡徳松さん一人、続いて勤続二十年目の藤田うの さん、他に大正九年から昭和二十年まで二十六年間を勤続して老境に入り、お暇をいただいていった坂本ちくさんのごときは、そのかくれた功績を正倉院古裂の名とともに記録すべきだと信じる。
by reijiyam | 2011-10-02 14:56 | 蔵書