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望都漢墓壁画 その2

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さらに無視されているのが、大きなアーチ天井に書いた八分隷書の大字である。白泥で書いてあるらしい白い文字である。
ただ、剥落しやすいだろうから、現在残っているかどうかはかなり不安だ。このレンガの幅が9.3cmぐらいであるから、10cmx20cmぐらいもある。漢人の墨跡としては例外的に大きいし、数も多い。木簡などの字とは比べ物にならないくらい大きく、また装飾的である。
これはたぶんアーチをあわせるための目印に書いたものではないかと思う。
最初のは中室のアーチ天井の一部である。非常にみにくい。しょうがないので、画家陳長虹氏による部分模写を次にあげる。
次も同じアーチ天井の一部だが、「急就奇觚」と初学教科書の「急就篇」の冒頭である。
この書風は壁画の墨書題字「主簿」などとはかなり違うように思った。
最後に出した写真のように、この墓のアーチ構造は2世紀のものとしてはきれいだ。中国へのアーチ技術の伝来はいつなのだろうか、と建築史の問題も考えてしまった。
by reijiyam | 2007-12-22 12:19 | 蔵書

望都漢墓壁画

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望都漢墓は、1952年ごろ発掘されたものなどで、文革以前に報告がでていた。
これがそれで、ハードカバークロス装だが、写真の複製という点では、必ずしも良いとはいえず隔靴掻痒の感がある。
壁画については、模写のカラー版が多い。昔は模写を馬鹿にしていたところもあるので残念に思ったものだ。今でも模写より精密なカラー写真のほうがいいとは思うが、人間の眼による解釈でないととらえきれない部分もあるし、ひどいカラー写真より模写のほうが良いこともある。また、「良い」カラー写真撮影の前に崩壊してしまったものなどでは模写しか残ってないということもある。ここで出したイメージは模写ではなく原壁のモノクロ写真図版から作成した。

望都漢墓壁画. 北京歴史博物館 河北省文物管理委員会編 1955 中国古典芸術出版社 B4精

後漢2世紀の大宦官 孫程かその養子の墓だと推定されている。いうまでもなく何度も墓泥棒にあっているが、優秀な壁画が残っていた。また、最古の碁盤(石製の明器)がでたのでも有名である。こういう発掘報告書では、とにかく全部だしてあるので、後世になって崩壊したものや無視されているものが記載されていてなかなか面白いことがある。

書道関係では、この硯を前にした書吏の絵が有名だったが、この題字も漢時代の墨書としては破格に大きい。「辟車五百八人」など縦40cmぐらいもある。木竹簡では到底このような大字は望めないだろう。これは「礼器碑」に類似していると思う。
by reijiyam | 2007-12-22 12:00 | 蔵書

クメールの微笑

e0071614_7195770.jpg  カンボジア国民を約200万人虐殺したポルポト派 クメール・ルージュを「アジア的優しさ」と形容した記事を書き、日本国内の認識を誤らせた朝日新聞記者 和田俊の著作である。230P、ペーパーバック、1975年、朝日新聞社 刊行。これを読むと、本多勝一のような確信犯ゴリゴリの詭弁家・権力志向の人ではなく、もっと天然な普通の人である。あの記事も日本に逃げ帰ってから築地の朝日新聞本社で書いたものなので憶測記事でしかない。現地にいながら、クメール=ルージュの正体がわからなかったというのもひどい話だが、これは悪意でねつ造したというより、政治記者・特派員としての無能によるものである。この本にはポルポトという単語すらない。中国共産党の援助を得たポルポトはプノンペン陥落まで晩年の毛沢東なみに黒幕でありつづけたので、カンボジア人でも、知らなかったと思うから、ここでもキューサムファンしかクメール=ルージュの要人の名前がでてこない。
 当時は中華人民共和国は文化大革命最中で、四人組もまだ大活躍していたわけだ。文革礼賛記事を載せていた朝日新聞としても、文革の虐殺に平行するクメール=ルージュの虐殺など報道したくなかっただろうから、こういう記事が編集部に簡単に通ったのはよく理解できる。
 読んでまず驚くのが、朝日新聞特派員なのに、赴任直後は、現地語(クメール語)が全く喋れないことだ。日本で1週間ぐらいでも特訓していけばよほど違うだろうに。観光旅行じゃないのだから、現地語ができるかどうかは、情報収集能力に大きく影響するはずだ。つまり政府首脳の記者クラブにつめていればいいという安易な考えなのだろう。そこならフランス語か英語でプレス発表があるからである。しかし、それでは、一般の人の意見どころか、知識人の意見だってわからないだろう。
 また、不思議なのは、あとがきに「ともにカンボジア生活をおくった妻」となっていることだ。戦地に妻を同行するなど、正気とは思えない。本文には夫人のことは一言もでてこないので、あたりまえだが単身赴任とばかり思っていた。もともとカンボジア在住の日本女性で在任中か帰国直後、この本の上梓前に結婚したのかもしれず、そのため「妻」という表記になっているのかもしれない。ひょっとしたら、和田夫人は、語学に堪能でサポートをしていたのか、重信房子さんや、高遠菜穂子さんのような戦地にいくような活動家だったのかもしれない。個人のことなどで憶測はこれ以上述べない。

一方、プノンペンを中心とする都市の習俗に限られるようだが、カンボジアの人々の習俗・習慣・慣習などについての鋭い観察、記述は、本当に面白く読ませるものがある。ただクメール人なのか都市に多く住んでいたはずの華僑なのかがあいまいなところがある。そうはいっても、戦時とはいえ大虐殺前の比較的平穏なカンボジア社会での観察記録は価値が高いし読ませるものがある。本多勝一「アラビア遊牧民」などもそうだが、朝日新聞関係でも、このような記事には傑作が多い。そもそも政治経済などを書くような新聞ではないと考えるべきで、ナショナル ゲオグラフィックのような雑誌に特化したほうが良いと思った。
by reijiyam | 2007-12-08 07:23 | 蔵書

「朱舜水先生を悼む」 安東省庵

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 反故の中から出てきたような巻子だが、この古文書、どうやら日本に亡命して水戸黄門のブレインになった明の学者 朱舜水(1600-1682)を、安東省庵(1622-1701)が悼んだ文の真筆らしい。安東省庵は、朱舜水が長崎にきて逆境にあったとき、弟子になり俸禄の半ばを6年間援助したという篤志の学者であり、福岡県柳川藩の儒者だった。訂正が全くなく、比較的良質の紙高の高い紙に書いてあり書風が一致している。後世の写本と比べても真筆の書風書き癖に酷似する。おそらく水戸藩の学者に送ったものではなかろうか。とすると、天和2年1682年の書ということになる。冒頭は無惨に消失しているが、それでも表装して巻物にしてあるので、かなり大切にされていたと考えられる。ただ、その後、虫が食い放題、表紙がなくなり何の文書か解らなくなって、貧架に流落してしまったということらしい。版本に収録されている文章とは、少しばかり文字が違うし, 剥落がひどいちはいえ最後に1行款記がある。版本では、「先生」で統一してあるが、ここでは殆ど「老師」である。「老師」というと現代中国語で「先生」の意味だが、明時代には科挙で合格させてもらった試験官のことだそうだから、むしろ明時代の風習を反映しているのかもしれない。その後、出版するとき、当時の文語体で一般的な「先生」に修正したのかもしれない。
  一見、眼をひくのは、厳格なタイ頭である。タイ頭というのは、科挙の答案・公文書・目上への手紙などで、「皇帝」とか先方の名前とかを、必ず行の先頭にし、しかも1字や2字持ち上げて書いて尊敬を表す習慣である。しかも重要度・身分差に応じて、1字と2字を区別する。「老師」「先生」は1字、「水戸宰相」「上公」(どちらも水戸光圀のこと)は2字持ち上げてはっきり区別している。自分の名「守約」(もりなり)をやや右に寄せて小さく書くのも中国の手紙や公文書の礼法であろう。また、目上の人名でタイ頭をするほどでもない人の場合1字前を空白にしている。こういう礼法も朱舜水先生直伝に違ない。
  朱舜水、安東省庵ともに長崎に関係があるので、興味深いものだと思った。歴史的にも面白い資料である。
by reijiyam | 2007-12-04 06:53 | 蔵書

積時帖 余清斎帖本

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1995/12/30に、安徽省新安碑林歙県博物館新拓積時帖を購得した。二玄社の書跡名品双刊をみていても思っていたことだが、虫喰いの跡を細い線で刻してある。新拓ではかなり薄くなっているが、それでも完全に消えたところはない。
 この虫喰いが約9cmで周期的に現れている。これは、歴史のある時点で約9÷3.14= 約3cmの径の巻子であったことを示している。この原本を最後にみて、記録しているのは、阮元であろう(石きょう随筆)。彼は古模本だといっている。拓本が合装されていたらしい。その後、どうも1945年、満州国宮廷崩壊の跡、亡失したらしい。ただ、消滅したというものがまた出現することもあるので未来に希望を持ちたい気がする。
 さて、この虫喰いは歴史の何時の時点でついたのだろう。どの時点で直径3cmの巻子だったのだろうか?
 明時代嘉靖年間に真賞斎帖に萬歳通天進帖を刻したとき、刻した細線は虫喰いの跡そのものではなかった。萬歳通天進帖そのものが模写本であるから、唐時代に原本を模写したとき、原本にあった虫喰いを細線で写した。その細線を真賞斎帖に刻したわけである。積時帖の虫喰い表現もひょっとしたら、古模本自体にあった細線だったのかもしれない。もし、そうならば唐時代の原本は直径3cmの巻子であったことになる。
 しかし古模本が現実に虫喰っていたのかもしれない。跋で、呉廷は「真跡だ」といっている。どうもこの人は何でも真跡だと特筆大書する傾向があるので、あまり信用がおけない人である。ただ、こうも考えられる。もし、虫喰いが現実のものではなく、描いたものであったとしたら、いくら呉廷でも真跡だというだろうか?
 そう考えると、余清斎帖に刻されたのは現実の虫喰い孔だということになり、虫喰いのできた時期は、ずっと下って、唐代に模本ができたときから、明代中期までの間ということになる。
 ところで、満州にあった積時帖巻子がこの太さであった可能性はあるだろうか?それはまずありえないと思う。余清斎帖に刻した時点の前後に穴があったとしたら、穴を塞いで表装をやりなおしているだろうからだ。

 ところで、書跡名品双刊、雑誌「墨」碑法帖入門号にのっている積時帖と比較すると、どうも迫力が乏しい。おかしいと思ってサイズを比較したら、拓本のほうが少し小さかった。模刻ではないとすると、サイズを大きくして印刷しているのである。書学院本は確かに、清初拓というべき名品なので、字画もはっきりしているし、先述の細線もずっと明確である。
ただ、拡大するときは、大して違っていなくても一言コメントが欲しかった思う。実物と比較してみる機会はめったにないのだから。
by reijiyam | 2007-12-02 11:55 | 蔵書