カテゴリ:中国絵画入門( 20 )

玲児の中国絵画入門 20 乾隆アカデミズム

 
e0071614_1830417.jpg




乾隆帝時代の宮廷の絵画作品というのは、知っているようで知らないというか、中国絵画史のなかでどういうところに位置づけるかがよくわからない、という感じがする。

  私が色々考えた結果、2つの面をあげたら、捉えやすいのではないか?と思っている。

一つは玲児の中国絵画入門 19 四王呉惲 でとりあげた明末清初の四王呉惲が造った「新しい平凡」といえる総合様式を大きく拡大し、宮殿や邸宅の大壁画に適用されたものが、現物で多数確認できるということだ。明末の紫禁城にも巨大な壁画が多数あったはずだが、李自成の軍が北京を退去するとき紫禁城の宮殿を焼いたので、ほとんどなくなっている。

したがって、宮殿壁画{貼落といわれるポスターあつかいのもの}が多量に残っているのは、この時代のものである。

上のイメージは、
清 銭維城 棲霞全図 1760題、台北國立故宮博物院
銭維城(1720-1772)の作品で、224.9x158.5cmもの大きさだ。2メートル以上の高さがある。


もう一方は、郎世寧(カスティリオーネ 1688-1766)に代表される西洋画の影響である。
郎世寧は、イタリア人だから、これは中国絵画なのかという批判もありうるが、外国人主導とはいえ、郎世寧(カスティリオーネ 1688-1766)の弟子や追従者もいたようだし、一種の中伊合作でもある。

 前から思っていたのは、カスティリオーネ自体は油彩やテンペラ、フレスコの技術をもっていたはずである。油彩による作品らしいものは数点しかない。昔考えたときは、、材料がなかったのかな?と思っていたが、良く考えたら当時の画家は絵の具は自作していたはずである。既製品の絵の具なんか使っていない。 またキャンバスなども麻布なんだから北京でいくらでも調達できたであろう。顔料・乾性油なども皇帝の権力で利用できないはずはない。

  どうも、このような中国絵画と西洋絵画を融合したような様式技法は、郎世寧のまわりで創造されたものではなかろうか?

 郎世寧は宮廷にいた人だから、前述のような宮殿用の超大型の絵も多いわけで、

清 郎世寧(カスティリオーネ 1688-1766) 十駿犬茹黄豹 、台北國立故宮博物院
247.5x163.7cm

 こういうのがある。これは2メートル50センチちかくもある。


e0071614_18313753.jpg



そして、付随的なことだが、こういう西洋風中国画というのは広東などで量産され、どうも江戸時代の洋風画、例えば司馬江漢、そして北斎などに影響を与えた可能性があると思う。


一方、満州民族のセンスが色濃いような特異な作品に
平安春信Castiliogne Peking 68.8x40.8cm 1782題 北京故宮博物院

がある。

e0071614_18322259.jpg



by reijiyam | 2015-09-21 18:34 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 19 四王呉惲

e0071614_212368.jpg

e0071614_21233244.jpg


e0071614_21234876.jpg


e0071614_21244599.jpg




 ちょっと難しい問題を書いてみる。これは入門に書くことではないかもしれない。そうはいっても、ここを突破しないと近代までつながらないんだから、しょうがない。

 清朝の正統派 アカデミズムを造ったのは四王呉惲だといわれている。
 四王呉惲というのは、王時敏,王鑑,王キ (王石谷) ,王原祁 (おうげんき) ,呉歴,惲寿平 (うんじゅへい) の6人である。上の絵は、王時敏,王鑑,王キ (王石谷) ,呉歴の作品である。

   この四王呉惲は、実は皆、明末清初の人々で、清朝にしか生きていないという人はだれもいない。明が滅んだとき、王時敏は52歳,王鑑は46歳,王キ (王石谷)は12歳 ,呉歴は12歳,惲寿平は11歳、最年少の王原祁でさえ、1年ほど明朝を生きている。明末清初画家として有名な八大山人は18歳だったのだから王時敏,王鑑の息子の世代である。明王朝王族出身のいわゆる遺民画家石濤と比較してみる。石濤は、王原祁よりは年長だが惲寿平より若く、王原祁との合作まである。
  画風の違いから、いわゆる明末清初画家と四王呉惲を分け、四王呉惲を清朝盛期のほうに引きつけて考えがちであるが、画風の継承関係はともかく時代的には全く間違いで、すべて同時代の活動だと考えなければならない。

 次に画風については、「董其昌に従って古画を学び模倣し新味なし」というような批評が多いけれど、いったい、彼らよりも古い絵画で彼らのような絵画があったであろうか?? 確かに、古画をパラフレーズしたものは多いし、XXを模倣したというサインがあるものは多いのだが、画風でいうと全く別物で、直接的な先祖を指摘することは困難である。ただ、その後、清末中華民国時期まで、この四王呉惲の様式が膨大なエピゴーネンを生み、無難で正統な形式になり、重量トンで測ったほうがいいくらいの多量の似たり寄ったりの絵画が生まれたので、つまらない平凡などこにでもある中国絵画様式にみえるのである。ただ、彼らが標準化したのは、山水画の世界だけである。それ以外の分野では、惲寿平様式が花卉画で流行ったが、それでも標準化したというほどではなかった。ずっと後世の、雍正乾隆時代の揚州八怪や清末の海上派が主として山水画以外に新味を出したのも、こういう権威の圧力があったからだろう。


 私はこれを「 新しい平凡」と呼びたいと思う。一種の折衷様式であって、それが正統になる過程や立場は、日本の狩野探幽による狩野派の覇権確立と似ているようにも思う。狩野探幽と時代もほぼ同じなのは不思議というほかはない。また、さんざん悪口をいわれてきた19世紀フランスのアカデミックなサロン画家の立場にも似ている。

 狩野派は血縁と養子縁組と師匠弟子関係で組織を作ってきたが、四王呉惲はどうだろうか? 王時敏と王鑑は地縁、王キ (王石谷) と呉歴と惲寿平 (うんじゅへい)は殆ど同じ年齢で交流がある。 王原祁は王時敏の孫だ。ここだけは血縁ね。王キ (王石谷) の工房は康煕帝の御用画家になって権威になったし、 王原祁は宮廷で高官になったから、これは権威そのもの。この王原祁の画風だけが董其昌にいやに似ているのは偶然ではないだろう。

  四王呉惲は、古画の模倣の元凶のようにいわれているが、例えば下の王鑑の「倣李成」は、現代考えている李成のイメージからははるかに遠い。つまり当時既に李成の画風は解らなくなっていたか、倣李成というのは口実だけで勝手に描いてよいと思ったのか、そのどちらかであろう。

e0071614_213745.jpg


 ただ、こういう模倣XXという看板が、後世に、単なる模写を作品あつかいしたり贋物つくりに正統性を与えたりして、山水画をどうしようもない沈滞におとしいれてしまったことも事実だろう。



by reijiyam | 2015-05-24 21:29 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 18   董其昌と文人画

  明末の官僚書画家:董其昌(1555-1636)と文人画という問題をちょっと考えてみたい。

  中国絵画を語るとき、文人画という概念を振り回す人もいる。日本における、中国の文人画に対する概念として「中国の文人画というものは士大夫(文官官僚を中心とする読書人階級)によって代表される素人が描いた絵をさす」(REF.飯島勇 編集、 文人画、日本の美術第4号 至文堂 )
 だとすると、北宋時代の絵画のほとんどは文人画ではないし、有名な中国絵画の半分以上は文人画ではない。  
 こういう変な議論が横行するのは、中国において画に関する理論と実際の制作がかなり乖離しがちなことが原因である。
 例えば、北宋の画家かつ官僚であった郭若虚はその図画見聞志に「昔の優れた絵画は全て高位高官の人々や高潔な在野の教養のある隠者が描いたものだ」「人品が既に高いのだから気韻が高くならないわけはない。気韻が既に高いのだから絵に生動が出ないはずはない。」という階級が読書人でなければダメと主張しながら、その各論で絶賛している画家は多くは職業画家で下手すれば文盲に近い人もいあたかもしれないようなムチャクチャな矛盾を平気で記述している。
 このように、絵画史の初めのころから、「理想の画家イメージ」と現実が、かけ離れていたのであったが、実は明末までは理論は理論、実践は実践で相互に無視していたような状況だったように思う。

 ところが、明末万暦ー天啓年間に受験勉強の天才で文部副大臣にまで成り上がった董其昌がでて、理論に現実を合わせようとしたから、おかしなことになった。おまけに多様な絵画が輩出した明末において、董其昌は一つの新機軸を出したから、ここで「高級官僚の素人画家」が具体化したのである。おまけに董其昌は「書画の特技で暴利をむさぼっている」と非難されたぐらいだから、自分とその仲間の絵画流派こそが正統だと主張した。これは商売敵を撃滅するシェア争いのようなものだ。
 もっとも、確かに董其昌の作品には結構面白いものがある。

 この四十三歳、1597年に友人のために描いた婉孌草堂図は、そうとう変である。


e0071614_1705960.jpg





空間がおかしく、モノが宙に浮いて漂っているような感がある。なんとも不思議な絵である。ただ技術的にはさして優れているわけではない。こういう面白い絵ばかり描いているわけではなくどうということもない平凡な下手な絵ある。また代作もずいぶん多かったようだし、むしろ代作のほうが技術的には優秀な絵が多いような感じがする。 下の台北國立故宮博物院の奇峯白雲図なんて、何度もみているがどこが良いのかさっぱりわからない。

e0071614_1781164.jpg




 董其昌のプロパガンタの副作用として、「下手な絵でも高位高官の絵なら価値がある」ということになった。一方、董其昌の実人生をみると腐敗官僚そのもので、到底「人品が高い」とはいいかねるものであった。董其昌自身が彼の理論を裏切っているのである。董其昌のインモラルな快楽主義は明末の陽明学+禅学の影響のようにもみえる。あの李卓吾と意気投合した人だそうだ。ところが、清の康煕帝が董其昌の書画を好まれたので事態が悪化した。悪口が言えなくなり美化されたのである。そのために清時代はまあボロがでなかったのだが、「文人画が職業画家の絵画より優れている」というのは、もともとかなり無理な理論だったのだから、現代まで一部に残照はあるとはいえ、だんだん棚上げされるようになってきた。その有様は、既に、乾隆時代の方士庶の画論にもほのみえる. 「写実を軽視するような理論を振り回す人は絵が下手なんだ」とか書いている。

この件は、
文人画とはなにか


という文章にも書いておいた。

また、董其昌の悪行を暴いた著作として、福本雅一, 先ず董其昌を殺せ, 明末清初, 同朋舎出版, 1984, 8, 、及び「董其昌の書画、二玄社にも収録
がある。

実際、明末の高級官僚画家にはずいぶんな人が多かった、ある人は男色家だったし、ある人は清の軍勢が攻めてきているのに戦費を横領して芸者遊びに耽溺した。

高級官僚が「人品が高い」とは到底いえないのは、現在の中華人民共和国の幹部をみても想像できるのではなかろうか。



by reijiyam | 2015-05-03 17:08 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門  17  宋元画 問題

  

 ここで、ちょっと、前に挙げた鳥瞰図という5項目に立ち戻ってみる

 1.北宋時代の山水画と花鳥画と白描画、
 2.元末四大家(黄公望、呉鎮、王蒙、倪雲林)、
 3.明中期の蘇州四大家(沈周 文徴明、唐寅、仇英)
 4.明末清初の爆発的な多様化
 5. 乾隆アカデミズムと揚州派の時代

 南宋時代が抜けていて、明前期の載進などのいわゆる浙派も無視されている点が気になるかもしれない。
実は意図的にそうした。
 それは、日本人が昔(あるいは今でも)尊重した「宋元画が最高」という見方を一時的に破壊したほうがいいと思ったからである。
この「宋元画」の実体が「南宋から元、明初」の「水墨画・花鳥画」であったからだ。それも水墨画は南宋末の牧谿などの禅宗寺院関係のもの、花鳥画は小品で茶席にかけるのに好適な精緻な作品が好まれた。
 ただ、南宋画といっても大きなものは殆どないし巻子本もない。元時代といっても、趙子昴や元末四大家系統の絵はなく、禅林関係の水墨画が多い。また明時代前期のいわゆる浙派の絵画が宋画というふれこみで輸入されたことも多かったようである。
 そういう当時のコレクションの実体を覗く窓として、鎌倉円覚寺の塔頭にコレクションされた書画や器物の目録:佛日庵公物目録がある。これは、南北朝時代貞治二年同四年 足利義満が将軍になる少し前の記録である。


 絵画鑑賞の場が茶席になった結果、足利義満のころの豪華で放胆な茶会はともかくとしてわび茶の三畳の席では大きな絵や長い巻物など観賞することは不可能である。そういうものをうまく切断トリミングして茶席にむくものに仕立てることが流行った。
 そういう過程を経て、現代まで多くの優れた作品が日本に伝わり、それらが日本人の中国絵画のイメージを形成したのは事実である。

  まず、牧谿の観音猿鶴三幅対(京都 大徳寺、 高172cm)だろう。これは長谷川等伯はじめ多くの画家に影響を与えたものだが、確かに重厚な傑作だと思う。

e0071614_15395376.jpg



一方で、花鳥画としては、李テキの紅白芙蓉図(東京国立博物館 25.2x25.5cm ACE1197)、これはなんのかんのいってもやはり傑作だろう(imageは「紅」のほう)。

e0071614_1540281.jpg




 ただ、禅林関係の水墨画が多かったせいで「水墨画」が中国画の代名詞になってしまった。ところが純粋な水墨画は中国絵画には少ない。たいていは淡彩併用である。それで明清の中国画をみると拒否反応を起こすという変な風潮が生まれる。 また、相当劣悪な絵画が「宋元画」というふれこみだけで尊重されるという奇妙な副作用もでた。

 例えば、江戸以来の中国画小品収集の代表である
唐絵手鑑筆耕園(六十図)を覗くとわかる。

良い作品もあるが、花籠図や鼠図などは、なんでこんなものが入っているのかと思うくらいである。写真より実物はもっとひどい。

馬麟は 根津博物館の小幅(縦51.4cm 横26.6cm)が 日本で有名だが、

e0071614_15413559.jpg


台北 國立故宮博物院の
馬麟 靜聴松風は、227x103cmという超巨大で,全然違う。。

e0071614_1542935.jpg



  いわゆる南宋の絵画、宋元画でも、日本での観念とはどうも違うんじゃないか?と思うんですよね。
 結局「お茶に使えるかどうか」で絵画の価格が左右されてしまう市場に永く慣れてしまうと、「宋元画」というだけで、なんかオーラができてしまうんで、それ以外の中国絵画は「高く売れない」「商売にならない」ものになるのね。 まあ、お茶の人はそれでいいんじゃないの。
 ただ、中国絵画全体を観る場合は、日本の絵画史全体をみるときに「琳派」しかみないようなものですね。
勿論琳派は素晴らしいがそれ以外にも大きな活動があるわけなんですね。

  まあ、南宋時代の画院で最も特色があるのは、夏ケイが描いた渓山清遠図巻(台北國立故宮博物院)のような画風でしょうね。雪舟が学んだ画風です。これは模本だという説もありますが、ネルソンの十二景図巻よりはずっといいでしょうね。前、雪舟展で十二景図巻の本物が展示されているそのすぐ上に、この渓山清遠図巻の写真が展示されておりました。写真でもよほど十二景図巻より迫力があったのには驚きでした。

e0071614_15501749.jpg




by reijiyam | 2015-04-29 15:42 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 16 明末清初の爆発的な多様化 その2



明末清初の絵画を語るとき、

 八大山人などの明の王族の末や、明の官吏で清朝になって野へ下った人などを取り上げて、「画に清朝への抵抗を表現した」だのと解説し、挙げ句の果てには「画家たちが抵抗運動を語り合った」などと想像して観てきたように語る人が少なくない。

 そりゃ、文字通り政治活動をやった人もいるかもしれないし、明が滅んだとき自殺した倪元ロのような人もいる。また、李自成が北京を落としたとき餓死した崔子忠のような、動乱の犠牲になった画家もいる。反清の軍を率いて軍事行動をして破れた人もいる。

 しかしながら、もっともよく語られる八大山人にしてからが、雍正末乾隆初めのオーソドックスな画史「國朝画徴録」のトップに挙げられて絶賛されているのである。下に原本イメージではっきり示す。

e0071614_10314797.jpg




 政治活動への弾圧が厳しかったといわれる雍正帝時代に書かれ出版された作品でトップに出ている画家が反清の活動家なんてことはありえないでしょう。そんな本ならとっくに禁書になっている。

明の王族であった八大山人は康煕17年ごろ、臨川の役所・邸宅に招かれて事実上監視下・軟禁におかれた。これは、そのすぐ前に三藩の乱の大戦争があったからでしょう。明王族を擁立して反乱されたら困りますからねえ。八大山人の軟禁と三藩の乱を関係させて観ることができないなんておかしいよなあ。八大山人の故郷でずっといてた南昌は三藩の乱では最前線だった。


 結局、明の王族の末裔の画家=清朝で弾圧監視される=反抗の意思が絵画に反映される という単純化された図式・先入観があるんだな。その背景に辛亥革命前後の「滅満興漢」の民族主義にのって、清初の画家で明の王族画家や明時代から画家やってた人のなかでそれらしい人々を反清政治活動家に仕立て上げたのでしょう。たぶん中華民国時代の知識人たちの誤解なんじゃないかな。

 おまけに1970年代にありがちな、
「芸術家は反体制でなければならない」「造反有理」「人民に奉仕する革命的心情のない芸術はダメ」などという先入観から、明時代から生きてきた画家や明王族末裔の画家を反清抵抗勢力にしてしまった。

一種の捏造ですね。

  明の王族の末裔で、優れた画家だった石濤(道濟)なんて、康煕帝に2度も拝謁しているし、満州人貴族をパトロンにしてましたしね。ちなみに石濤の絵画は明末清初というより後の揚州派の先駆という感じがある。揚州派の人で石濤を尊敬する人は多い。

   陳洪綬は、明滅亡後「悔遅」(遅かったのを悔やむ)と号をつけて、明滅亡に何もできなかったのを悔やんだ格好を示したが、それはかっこつけじゃないかなあ。もともと「無類の女好き」「酒好き」の人だったから、そんなの宣伝でしょ。


by reijiyam | 2015-04-27 10:32 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 15 明末清初の爆発的な多様化 その1


中国絵画や書道作品の話で、よく明末清初という言葉が出てくる。明王朝が滅び、清王朝が成立する時代であるが、明王朝は李自成の反乱軍によって北京が陥落し崇禎帝が自殺して滅んだわけで、清軍が滅ぼしたわけではない。もっとも、その後、清軍が侵入し、全土を征服する過程で南京などの明の王族政府との衝突、様々な戦闘や虐殺があったわけだから、清軍の征服戦争はあったわけだ。

 その前の万暦の後半、天啓崇禎年間と清征服後の順治康煕年間全版ぐらいに、実に多様な作品が爆発的に生産された。しかも時代が比較的近い(江戸初期と同時代)ので、そうとうの量の絵画が残っていて実物をみることができる。ただ、明末清初というと短い限られた時代のような感じがするが、よく考えてみると、1610年ごろから1700年ごろの約90年である。1世紀に近い時間であり、3-4世代が交替しているわけで決して短くはない。大正初めから現代までの間にどれだけ日本の美術が変わったかを考えると短い時間とはいえないと思う。

この1世紀の初め1610年ごろの呉彬の山水画は、まるで怪石を拡大したもののようである。ここまで奇怪で非現実的な山岳はありえないだろうが、それでも面白いことは確かである。呉彬は怪石の愛好家の画家でもある官僚 米萬鐘のために「怪石図巻」まで描いている。
呉彬(谿山絶塵  橋本コレクション)

e0071614_13323527.jpg


 

 もう1世代あとの 陳洪綬、崔子忠は、下のような不思議な人物故事画を描いている、これは唐以前の画風を蘇らせようとする試みというか、唐以前の絵画と称する贋物に触発された発明というべきか、面白い


陳洪綬(宣文君授経図(部分) クリーブランド美術館)、
e0071614_13314066.jpg




崔子忠(伏正授経図  上海博物館)
e0071614_13321264.jpg






一方、康煕年間には法若真(1613-1696)のエネルギーに満ちた天地創造のような山水画があり

黄山木葉図巻(東京国立博物館)の末尾
e0071614_13305125.jpg




この時代の末尾を飾る最高峰として、八大山人の安晩帖(京都 泉屋博古館)の高邁な水墨画(康煕33年ごろ)がある。

e0071614_1326393.jpg

 安晩帖


   実は、八大山人は、王時敏や惲寿平より長生きしていて、この安晩帖は下の惲寿平の作品(大阪市立美術館)より後に描かれたものである。八大山人は明の王族だったわけで、いかにも明末清初を体現しているかのようで、惲寿平はむしろ後の時代に属しているようにみえるが、事実は違う。これらが全て並行的に生産されていたのである。



e0071614_1326070.jpg

by reijiyam | 2015-04-26 13:33 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 14  仇英





鳥瞰図で文字だけであげたものを実例で絵解きする続き。
ただ、これも、あまり しっかりした解説ではなく、ゆるい感想程度ね。


  文徴明と交際もあった仇英(1494?-1552頃)は、純然たる職業画家ですが、逆にそれ故に個人的記録が少なく、文章には書きにくい感じがします。 割と早く亡くなっているようなので、晩年作というべきものはないでしょう。壮年作までが全てです。

  とにかく、美しい豪華な作品がたくさん残っており、人気も高いので、サリバン先生によれば、
>かれ(仇英)の見るからに楽しい絵画は中国でも西洋でも愛好され、そのためもあって中国美術史上で王石谷に次いで贋物の多い作家であるといえよう。
だそうです。日本にも仇英といわれる絵は結構ありますが、京都知恩院所蔵の奇跡的な双幅(金谷園図と桃李園図)を除けば良いものはないようです。強いていえば、かなり傷んでいますが東京国立博物館の山水画がまあ良いほうでしょう。

去年 台北國立故宮博物院であった仇英展は残念ながらいけなかったのですが、出展された作品はだいたい見ているようです。

   既に、玲児のの中国絵画入門 1 中国絵画のイメージ
で、仙山楼閣図(台北故宮)を挙げておきました。

 他の代表作としては、ネルソンの潯陽送別図巻と台北國立故宮博物院の東林図巻をだしてみます。潯陽送別ってのは白楽天の琵琶行の冒頭の部分ですね。シカゴの桃源図巻との関係がいわれていましたがシカゴのものはカラー図版でみる限りあまりよくないようなので、こちらをみなおしました。台北國立故宮博物院の東林図は、台北で似た絵柄のものと比較展示「伝移模写展」で実見して、その質の高さを感じましたので、そうとう良いと思います。

e0071614_841402.jpg



e0071614_8421661.jpg


  これらをみると仇英は、中国の資産階級上流階級が夢見る理想的生活を絵画として具現化しているもののようにおもわれます。そこには仏教的な極楽や道教的な仙境はなく、神秘性や彼岸へのあこがれ、超越的なものへの賛美はなく、至って現世的で即物的で豪華で、しかもある倫理性と審美性をもった生活・世界を画面に現実化しています。これが歓迎された理由ではないか?と思います。中南海でも愛好されそうですね。

  一方、巨大な水墨淡彩の人物画も描いています。下のイメージの桐蔭清話(台北國立故宮博物院)は、まさにそれで高さ2,7mもあります。
e0071614_8435981.jpg




  また、ケーヒル先生は、「江岸別意」(新藤武弘  小林宏光 訳)で
>仇英の他の作品と同様、画面上に表れていることがその意味内容のほとんどすべてなので、画中のことを具体的に説明することはできても、分析して論じるのは容易でない。
と書いているのは非常に深いところをついている見解だと思います。また、
>仇英が様々な画風を再生する多彩ぶりを見ると、仮に、項元汴がイタリアルネサンスの肖像画をかれに見せ、画材とそれに慣れるため一両日の時間を与えたならば、かれは十五世紀フロレンス貴族の格好をした項元汴の肖像を見事に描き上げたのではないかと思う。
とも述べていますが、これは、この本で一番印象的な文章でした。

  そういう仇英なので、個人的な顔が全くみえないんですね、絵に付属したサインと印章以外に、仇英の言葉・文章すら残っていないと思います。
  ただ一つだけ、気になるのは黄山谷の標準作 松風閣詩巻(台北國立故宮博物院)の末尾に仇英の印が2つあることです。ひょっとしたら、この劇蹟は仇英が掘り出して項元汴にもちこんだものなんでしょうか? その場面を想像すると、かろうじて仇英の顔がみえてくるような気もします。

by reijiyam | 2015-04-13 08:47 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 13 沈周



鳥瞰図で文字だけであげたものを実例で絵解きする続き。
ただ、これも、あまり しっかりした解説ではなく、ゆるい感想程度ね。

文徴明の先輩で師匠でもあった沈周(1427-1509)は、かなり作風が違います。沈周は、前「玲児の中国絵画入門 11 元末四大家」であげた元末の黄公望の富春山居図を所蔵してまして、しかもその美しい模写本を自分で製作しています。台北でこの二本を同時に観賞する機会がありましたが、沈周の模写本も美しいものでした。しかもなんとなく沈周風があるんですね。つまり沈周は黄公望の忠実な模写ができず自分の個性がどうしてもでてしまうということなんですね。この個性というのはなんなんだろう? と思いました。一説には元末の呉鎮の影響があるといわれています。 

 2014年春に、 台北國立故宮博物院で開催された沈周展でみた沈周風の山水画で一番良かったのは
この策杖図でした。そうとう大きな絵なんですが、画家の人格がにじみ出ているような感じのする良い絵でした。
e0071614_9451917.jpg



 こういう沈周風の山水画は、歓迎され、蘇州の名所を描いたステロタイプの工房作?量産品?模倣作?が多量に残っています。下記のようなものがそういうものじゃないかと思います。

e0071614_9453693.jpg



 ところで、弟子ということになっている文徴明とは相当画風が違うのも面白いことです。沈周と文徴明が合作というか同じ画册に入っているもの(例、ネルソンアトキンスの画册)でも結構違います。



一方、沈周の作品にはこの猫の絵のような気楽で、しかも技法的に優れた作品もあるんですね。こういう「雑画」といわれる絵画は、その後、徐青藤や八大山人、揚州八怪への道を開いているわけで、結構ランドマークというかモニュメント的な作品だと思います。去年の沈周展でも大きな看板になってました。

e0071614_946037.jpg



by reijiyam | 2015-04-12 09:47 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 12 文徴明




鳥瞰図で文字だけであげたものを実例で絵解きする続き。
ただ、これも、あまり しっかりした解説ではなく、ゆるい感想程度ね。


蘇州の沈周 文徴明、仇英, 普通はこれに唐寅をいれて、四大家とかいうんですが、どうも唐寅の絵にそれほど時代をリードし抜きんでたものを感じないんで、除きます。
 ここで、面白いのは、この三人、まあ四人でもいいんですが、皆、高位高官の役人ではないことです。仇英は純粋な職業画家で、一説には文盲だった(そんなわけねーだろ)というぐらいです。文徴明は科挙にずーっと失敗し続けた浪人で、友人の推薦で一時、北京の翰林院で仕事をしましたが周囲から冷遇され短期で切り上げて蘇州にもどりました。沈周は大地主で、地方の顔役でしたが庄屋的な役職についたぐらいの人です。商人の息子:唐寅は超優秀で科挙試験でトップ及第を繰り返して驀進、北京に試験にいったのはよかったが、不正事件に連座して失脚、その後は在野生活。なんか不平王族の幕僚に招聘されたことはあったようですが、反乱事件にまきこまれそうになって脱出しました。
 文人画の典型といわれるような文徴明・沈周にしてもこうなんですからね。

1999年に書いた

文人画とは何か

という小文にさして間違いはありませんでした。
要するに「高位高官が余技で描いた絵」というのは嘘だったということです。

蘇州の沈周 文徴明、仇英を一緒に書くのはしんどいので、分割してあげます。

 さて、やはりこの蘇州の画家のうちでは文徴明(1470-1559)が一番重要です。なぜなら、彼は一つの様式を建設して、後輩の蘇州の画家は皆、追随し、その影響は清末の画家まで及んでいるからです。教養ある画家が倣うべき一つの様式を作ったということは偉大なことです。
 また、書画が一体になった芸術作品を沈周とともに作っていますね。元末四大家は呉鎮を除けば、そう能書家とはいえませんでした。むしろ元初の趙子昴が書画一体といえないこともないのですが、保存の良い趙子昴の書画合壁が少ないのが残念です。趙子昴の近くにいた元の朱徳潤「秀野軒図巻」(北京故宮博物院)も書画合壁ですから、趙子昴→沈周文徴明という線での伝承なのでしょう。書画合壁が盛大になったのはやはりこの時代の蘇州からでしょう。
 文徴明の周りには多数の画家が集まり相互に影響を与えたり追随したりして、文徴明逝去後も様式を伝え「呉派」と呼ばれました。

孤立した天才の仕事ではないので強力に後世に影響を及ぼしました。当然、代作や偽作、模写、も多かったと思います。

文徴明の代表的な作風は、やはりこの「江南春」(台北國立故宮博物院)の繊細優美なカラリストぶりではないでしょうか?このような絵は、彼以前に描かれたことはないと思います。


e0071614_9592674.jpg


e0071614_9585873.jpg


また、その一方、特に晩年作に大胆で強靱な古木などの絵がめだちます。例えばこの古木寒泉(台北國立故宮博物院)
ホノルルの七星檜も有名ですが未見です。これは趙子昴の絵の模写ということになってますが、模写なのかなあ?

この辺の様式変化 整合性をどうとらえるかは、まだよくわかりません。

e0071614_9595920.jpg


by reijiyam | 2015-04-10 10:03 | 中国絵画入門 | Comments(0)

玲児の中国絵画入門 11 元末四大家



鳥瞰図で文字だけであげたものを実例で絵解きする続き。
ただ、これも、あまり しっかりした解説ではなく、ゆるい感想程度ね。

元末四大家ってのは、元地代末明地代初に活躍した四人の画家「黄公望、呉鎮、王蒙、倪雲林」です。

後世の絵をみると、この四人の誰かの作風をまねましたあ、と書いているものがやたらと多い。
書いてなくても、あ、まねしたな、と思われる絵も多いんだな。


なんでそんなに模倣されるのか。明時代後期以降さかんになった「文人画」という理念、官僚や官僚予備軍の学者や僧侶・道士などがアマチュア画家として描いた絵画のほうが、プロの画家が描いた絵より優れているという迷信が流行った。これは、画家同士の派閥争いが原因だと思っている。
ただ、アマチュア画家が描きやすい様式技術というのが必要なんだな、これが元末四大家の様式です。

じゃあ、元末四大家の作品は未熟で単純な作品かというとそういうことはないわけで、やはり代表的な真作は、厳しく引き締まった優れた作品です。ただ、あまり多数残っていないですね。贋作偽作コピーもやたらと多いしね。


 まず、黄公望(1269-1354)、この人は役人を一時やってましたが犯罪に連座して入獄し、諦めてしまい、三階教の道士をやってました。代表作は、この富春山居図巻(紙に墨、台北 國立故宮博物院)
この作品は一見平凡でありきたりでそっけないですが、後世の画家の作品の数十点分が一作品に入っているような感じがします。源泉というか、まだ未分化な定型化していない創造の息吹を感じるんですね。


e0071614_113883.jpg




 呉鎮(1280-1354)、この人は浙江省の嘉興で易者をやってました。画家としてもセミプロみたいで教科書みたいな墨竹譜を作ったりしています。面白いのは草書が得意で草書で書いていることが多いんですがその草書が、あの唐時代の懐素の絹本小草書千字文=千金帖=蘭千山館本と良く似ているんですね。

それであの千字文は実は呉鎮の作品ではないか?と疑う人もいます。私はそうではないと今は思っております。
 山水画では、五代北宋の董源と巨然の様式を典型化類型化したような作品があって、後世考えられている董源と巨然の様式は彼の絵のフィルターを通しているのではないか?特に巨然の絵とされている絵のなかで呉鎮の絵があるのは常識となっています。そういう山水画よりも、むしろ墨竹のほうがいいかな、と感じております。
 フリーアの風竹図
はとても有名ですが実見したことがないので、実見した台北國立故宮博物院のものをあげてみます。

e0071614_1165325.jpg



 元末四大家といっても次の二人は明らかに一世代後です。

 倪雲林(1301-1374)  「瓚」という字がでないことが多いのでこのような表記にしました。彼は無錫の大富豪の庶子で気楽な趣味生活をやっていました。 収集した名画劇蹟も多く現在まで残っているものもあります。また潔癖家として有名ですが、日本人の感覚では普通じゃないの中国人は汚すぎ?と思います。
 頼りの長男が死んでしまい、家を継いだら経営手腕なし、悪徳官吏(現在の中国共産党の地方幹部そのものです)との交渉能力無し、結局家をつぶして、放浪生活に入ったという人です。

 作品(及び贋作とコピー)は、だいたい皆 代表作の容膝斎図(イメージ  台北國立故宮博物院)のようなもので似たり寄ったりです。まさにケーヒル先生のいうHills beyond Riverなんですね。従って一見簡単にマネできそうにみえるので膨大な贋物があります。そして真跡と思われるものがとても少ない、10点以下だと思います。しかしながら、本物をみるとかなり特色があり、意外に、贋物と本物の区別ができそうな気がします。

 それにしても、京都国立博物館に入った上野コレクションの一つ雲林六墨とかいう画册(博文堂で影印)は清初のキョウ賢の作品をいじったものでしょう。あまりにも露骨で笑いました。

e0071614_1172990.jpg



 王蒙(1301-1385) 現代の作家にも同名の人がいますね。この人は宋の王族でフビライに仕え元初の文化をリードした趙子昴の外孫ですから、結構いいところの人なんですね。で、基本的には官僚でした。
 王蒙風の山水画様式は倪雲林の正反対で非常に煩雑でパワーに満ちたものです。相当体力野心もあった人なんだろうな。一応、代表作とされる青卞隠居図(上海博物館)具区林屋図(台北國立故宮博物院)をあげてみます。

e0071614_1174831.jpg


e0071614_118854.jpg


 ただ、王蒙自体が明時代にかかっていることもあり時代が文徴明の時代と接近しており、現存作品が多いこともありますが、沈周文徴明など明中期の画家に模写模倣された作品が非常に多く、区別がつかない状況のように思います。実際、國立故宮博物院の傳移模写展で3点の花谿漁隠図を対照してみることができましたが、かなり難しいと思いました。
 
 ただ、この様式自体はその後もずーーと影響力が大きく、清時代中期まで、あるいは現代まで影響があると思います。東京国立博物館の文伯仁  四万山水図にも大きな影響を感じます。

by reijiyam | 2015-04-08 11:13 | 中国絵画入門 | Comments(0)