玲児の蔵書
2024-03-10T10:32:25+09:00
reijiyam
古美術と書道史などの話題と日々の思いつきを紹介します。イメージをCLICKしてください。拡大表示します。
Excite Blog
鮑宅山鳳凰題字
http://reijibook.exblog.jp/30848065/
2024-03-10T10:32:00+09:00
2024-03-10T10:32:25+09:00
2024-03-10T10:32:25+09:00
reijiyam
蔵書
山東省沂南 銅井鎮三山溝村にある大きな石にある。
元鳳は、中国、前漢の元号(紀元前80年~紀元前75年)なので、前漢末の刻石じゃないかという話が、
昔からあるものですが、なぜかあまり有名ではなく、影印もほとんどないものです。
大鳳凰 24cm,高20 cm。小鳳凰 長12 cm,高11 cm。だそうです。画像引用元は 神州大観 12号(神州国光集 33号) 1917年7月20日、上海 神州国光社
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仕女画像セン 2点
http://reijibook.exblog.jp/30738551/
2024-01-24T13:32:00+09:00
2024-01-24T13:37:47+09:00
2024-01-24T13:32:07+09:00
reijiyam
コレクション
北宋時代とされるこの仕女画像セン の拓本は 民国時代の天津の収集家 方若 が制作したものだ。原件のレンガ4枚を方若がもっていた。今は北京の国家博物館(旧 中国歴史博物館)にある。
その中の1枚の拓本は、既に紹介していたが、今回2枚とも紹介することにした。
なぜなら、最新の
Orientations の最新号
https://www.orientations.com.hk/past-issues/p/janfeb-2024
に、同類の画像センについて、拓本ではなく、ドローイングがあげてあったので、意外に思ったものだ。この記事では、この女性がかぶっている大きな頭飾りについて細かく議論していた。出土品では銀製のこのかたちのものがあるそうだ。
もともと骨董品として売買され天津の方若のコレクションにあった物な上、あまり他に類例が知られていないようにみえたので、「北宋」という時代推定と、「河南偃師出土」ということに、どういう根拠があるのか疑問に思っていた。もともと王国維は「観堂集林・別集・古画セン跋」で「六朝時代の画像セン」とみなしていたそうだ(ref2)。
この画像センは、一応紹介されたことはあるが詳しい解説がされたかどうかは知らない。
外文出版社が、雑誌「文物」のコラムなどから日本語に抄訳した記事を集めた1983年の一般向けの本(ref1)
に、短い文章があった。実は、これは1979年の文物でのコラムを更に短くしたものである。ただし、これら(ref1,ref2)に採用されている図版は粗雑でテーブルの上の器物の細部はわからない。
このもともとの文物のコラム(ref2)を読んで、ようやく根拠がわかった。1955年4月の考古学的発掘で「河南省偃師の宋墓で同じもの(4点のうちの1点 魚をさばく女性と同じもの)が出土した」という事実があったと書いてあった。[北宋]というのは、南宋時代には河南省は金領土の上、国境地帯になり、首都べん京も河南ではあったが荒廃したからだと思う。
ref1 二千三百年前の古代中山国の謎ー中国の文物と考古選集ー、外文出版社、北京、1983
ref2 石志廉、北宋婦女画像セン、文物、1979年第3期87-89p、文物出版社、北京
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宋拓魅力 碑帖珍本特展 の日本未公開作品解説
http://reijibook.exblog.jp/30720385/
2024-01-21T09:07:00+09:00
2024-01-23T14:33:13+09:00
2024-01-21T09:07:20+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
「宋拓魅力──碑帖珍本特展」
という展覧会があった。香港中文大学の北山堂コレクションと、北京故宮の所蔵品をあわせた充実した展覧会だったようである。
便利なURL紹介は、書学書道史学会の頁にあった。
http://shogaku-shodoushi.org/?p=2240
このリストの中で、日本未公開のもので、重要なものについて、少しコメントしてみたい。
西嶽華山廟碑 冊 順徳本 (香港)
西嶽華山廟碑 冊 華陰本 (北京)
壁に 西嶽華山廟碑 の大きな全形拓本がパネルディスプレイされていたが、あれは「四明本」というもので、北京故宮所蔵であるが、今回は展示されていない。前、日本で展示されたことがある。あるいは、北京故宮の他のギャラリーにかけてあったのかもしれない。
漢 夏承碑(香港) これは、書道博物館に貸し出される予定だったのだが、東日本大震災で中止になった。この拓本には色々問題がある。
2020年11月27日 北山堂 夏承碑は真賞斎旧蔵なのか
http://reijiyamashina.sblo.jp/article/188162783.html
魏 廬江太守范式碑 冊(北京)は、現在でもたぶん原石はあるし原石拓本もそう高くもないのに、動画や宣伝にもなにかとでるがどこがいいのか?と思うかもしれないが、魏の時代の碑としては書法的に優れている。また乾隆時代の学者 黄易が秘蔵した拓本の一つで最旧である。という意味で尊重されている。
唐 孔子廟堂碑 西廟堂本冊(北京)
これは、説明しないとなにがなんだかわからない。まず 西廟堂本というのは何? 虞世南の孔子廟堂碑 原石は唐時代早くすでになくなっていておそらく重刻(拓本からの複製)された。宋時代の重刻(複製)らしい石が二種類近年まで伝わってきた。宋時代の重刻で
あるのだから、これは既に二回重刻されたものということになる。唐時代の拓本とされるのは、日本の三井文庫にある一冊のしかも一部分だけである。しかも原石拓本かどうかすらわからない。
西のほうの陜西省 にある重刻の石を(西廟堂本)とも陜西本とも呼ぶ。三井文庫にある一冊もかなりの部分が陜西本で補われている。この事情については翁方綱の考証に従うことにする。
東の方山東省城武県にある重刻の石を東廟堂本または城武本と呼ぶ。
さて、今回展示された拓本冊は 明時代の庫装(宮廷での装丁)といわれる古いゆゆしい伝来のもので、大正ごろに、上海有正書局から影印本がでていた(中華民国5年第5版を閲覧)が、あまり良い影印とはいえないものだった。もう少し良い写真がほしいものである。
唐九成宮醴泉銘 冊 李祺本 (北京)
こちらも日本に来たことはない。
九成宮醴泉銘は陝西省西安の西北に、原石があることはあるのだが、すっかりすり減ってしまっている上に何度も文字をはっきりさせようと加工が行われたため、ほとんど原形をとどめていないという惨状になっている。
従って、書を習う手本、書の鑑賞という意味では、現在の原石拓本にはほとんど意味はない。まだすり減っていない古い時代に、しかもできるだけ精密に制作した拓本が望まれるわけである。そういう需要が高かったので、そういう拓本はいよいよ高価になり稀少になってしまった。
それでも、虞世南の孔子廟堂碑 のように原石拓本がほとんど無くなってしまった事情よりはまだマシである。
この北京故宮の拓本冊は、最も古く精密という評判が高いもので、二〇世紀後半に影印本が刊行されたときには、書道界にかなり騒ぎをおこしたものである。
その理由は、
・九成宮醴泉銘 が楷書の手本として広く使われていた。
・従来 高く評価されていた拓本は三井文庫の「端方旧蔵本」またの名を「海内第一本」であった。
という背景があった。そのため
・「端方旧蔵本」とこの「李祺本」ではかなり印象が違うので、九成宮醴泉銘の真の姿はどちらなのか?
という論争対立が起きた。
現在は、「端方旧蔵本」とこの「李祺本」の差は、拓本の技術・修理などの保存状態、使った紙などの違いなど様々な問題が考えられていて、単純に一方が良いとはいえないという複雑な問題になっているようだ。
私としては、むしろ両者の中間のようにみえる三井文庫の別本「李鴻裔 本」を愛好している。
この展覧会ででているもう一冊の九成宮醴泉銘 冊は、たぶん香港にあり、東京国立博物館の「顔真卿展」に貸し出されたものだと思うので、日本に来ている。鑑賞したが、「端方旧蔵本」に近いものだった。
第2室 淳化閣帖などの法帖
これでは
淳化閣帖泉州本冊 (香港) が未だ来日してないものの中では重要だ。
この名前では、全く知らないという人だらけだろうけれど、実は
昔から影印本があった
「宋拓王右軍書」がこれで、名前が変わったのである。いろいろな研究の末こうなったのだ。「宋拓王右軍書」は、上海の商務印書館で1918年初版その後8版以上版を重ね好評だったものなので、かなり普及した影印本である。ただ、版によって多少印刷の精度に差がある。
宇野雪村氏の「法帖」では、の原本の断片集成かといわんばかりの誉め方をしていたものだ。
十七帖冊(孔氏嶽雪楼本)(香港)は三井本(行方不明)とよく似ているというので近年 話題を呼び澤田先生の細かい研究もある。
第3室 蘭亭
日本で公開されていないもののなかでは
御府本(甲之五) (香港)が重要だろう。
これは、蘭亭の諸系統やテキストについての微妙な問題のカギになりえるという意味で、面白いものである。
游相本御府領字従山本蘭亭序を巡って (J-stageサイトの論文)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shogakushodoshi/2021/31/2021_43/_pdf/-char/ja
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モンス・デジデリオの静物画
http://reijibook.exblog.jp/30683990/
2024-01-14T11:02:00+09:00
2024-01-14T12:44:07+09:00
2024-01-14T11:02:09+09:00
reijiyam
蔵書
2004年 モンス・デジデリオ(フランソワ ド ノーメの故郷メスで開催された展覧会図録を入手した。
Monique Sary, Maria-Rosaria Nappi, Monsu Desiderio: Un fantastique architectural au XVIIe siecle,2004
驚きなのは、モンス・デジデリオ作とされる静物画がカラー図版つきで掲載されていたことだ。トレヴィルの本の解説で言及はあったが、カラー図版は初めてみる。
確かに時計?らしい器具や下部のテーブルクロスのマチエールはそれっぽい。
ただサインもないし、どうなのかなあ??
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古銅印と印譜と金印
http://reijibook.exblog.jp/30670803/
2024-01-12T06:55:00+09:00
2024-01-12T07:21:19+09:00
2024-01-12T06:55:07+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
魏の金印:甘粛省博物館 (当方 撮影)
穆如清風室古官印
先秦秦漢古銅印といっても、実際は三国時代晋時代ぐらいまでの封泥に押すことを前提とした方寸の古銅印もまたそのカテゴリーにいれていた。
隋唐ごろから、紙に押すことを前提として、印の制度が大きく変わり、印が大型化し、印綬として官僚が身につけるものではなくなった。
清朝の大型の官印をみると、とてもリボンを通して身につけることなどできないのは明白であろう。
逆に、隋唐より前、南北朝時代の古銅印はむしろ漢時代の印に近いわけで、印譜では、そういうものも秦漢古銅印として収録してしまっていることが多い。
勿論、先秦秦漢古銅印でも、大型の印はあるが、それは焼き印や陶磁器に押すための印など特殊な用途のものである。
したがって、古銅印印譜というと、先秦秦漢と、まあ魏晋そして南北朝時代前期ぐらいまでの古銅印を主とするものである。ただ、印譜にするときは、上イメージのように、朱肉・印泥をつけて押すのが通例で、封泥にするわけではない。封泥につくって写真とったりするようになるのは20世紀になってからである。
ところが日本では、ちょっと別の銅印収集分野がある。それが「糸印」の収集である。「糸印」というのは室町ぐらいから江戸前期の日明貿易にともなって輸入されたつまみ(チュウ)が動物の形などのおもしろい形をした銅印である。主として貿易船が航海した当時の明時代後期の作品だとされる。生糸貿易に伴って多量に輸入されたので「糸印」と呼ばれたのだろう。印面の文字はよく読めなかったり、意味不明の模様やパスパ文字類似の文字だったりしているものだ。根付けとして愛好されたり、いろいろな形のものを収集したりする対象となった。
この「糸印」、日本の骨董業界ではよく知られているもので、まあマイナーな収集の一分野になっている。多量にあるせいか基本的には価格も安い。
従って、古銅印というと、秦漢古銅印ではなく、この「糸印」を連想する日本人も少なくないので混乱が起きやすいことを注意しておきたい。
「糸印」の印面の文字はムチャクチャなので、篆刻家には全く尊重されないが、この混同のために話が通じなくなることがある。「糸印」だけの印譜を作った人もいるようだが、ここでは、先秦秦漢古銅印のことに限る。
古銅印印譜というと「銅」製のものだけだと思いがちだが、実際に
印譜をひもとくと、金・銀・鉛・玉・滑石・骨・陶印まで入っていたりする。これでは名称が間違っているのではないか、と思うのも無理はない。
だから、国宝の志賀島の金印もカテゴリーとしては「古銅印」にはいってしまうのである。数的には90%以上大部分が青銅印なのだから、まあそういう慣用のカテゴリー分けだと納得してもらうほかない。古璽印譜のほうが名称としてはいいと思うが、古銅印印譜のほうが一般的につかわれているようだ。
宇宙物理学で恒星の成分のことをいうとき「水素とヘリウム以外」を「金属」と呼ぶのは、どこから出た慣習なのかわからないが、ひどく不適当な呼び方であるが、未だに続いているようなものだろう。
古銅印印譜に採用されてる古銅印の定義というか範囲は、以上のようなものである。
興味深いことに、古銅印収集は、日本の文化財収集古美術収集のメインストリームではない。
例えば、東京国立博物館の東洋館が開館したときの総目録をみると、銅印もかなり入っているが先秦秦漢古銅印とみるべきものは多くないし、時代も注記されず、ひどいのになると[美濃土岐役元]なる文字が印面になっている銅印がリストに入っている。なんだこれは。。。
封泥の大コレクションはあるが、これは関西の阿部房次郎氏が購入して当時の帝室博物館に寄贈したものである。寄贈以後、ごく一部、数点をのぞき70年以上公開されず、1999年初めに封泥 の企画展が開催され図録も作られた。
一方、本格的な日本の先秦秦漢古銅印コレクションは、関西に多い。
・京都の藤井有鄰館
・大谷大学コレクション これは旧羅振玉コレクション
・奈良の依水園:寧楽美術館
・和泉市久保惣記念美術館の旧園田湖城コレクション
・これは東北だが、盛岡の岩手県美術館:旧 太田孝太郎コレクション
いずれも、昭和前半に形成されたものである。
そして、興味深いことは、日本に輸入された時点は、江戸期どころか明治時代にさえ遡らない。
この点、中国書画とも全く違っている。
また、東京国立博物館、根津美術館、白鶴美術館などの青銅器の有名コレクション有名博物館の名前が全く出てこないのに奇異な思いをもった人もいるのではなかろうか?
こういう博物館にも、古銅印が全く無いというわけではないが、大コレクションは無い。
つまり、鑑賞・収集していた人々・サークルが違っていた、ということである。
国宝 金印 贋作疑惑のしょうもない議論のときに、贋作疑惑を提起している人々に、秦漢古銅印収集の日本における歴史や現状に知識が無いことに気がついた。江戸時代には秦漢の古銅印の実物は贋作者も学者もまず見ることはできなかった。ひょっとしたら、大変な好事家であった近衛家煕もいた近衛家の陽明文庫にはあったかもしれない。その事情を歴史的に概観すると次のとおりである。
・天明4年(1784年) 金印 志賀島で発見
・天明5年(1785年):
「印聖」と呼ばれ好事家でもあった篆刻家:髙芙蓉の、天明5年の芙蓉山房私印譜は、東京国立博物館デジタルライブラリーで閲覧することができる。その末尾に収集した中国古印を収録している。その全てが漢時代のものではないどころか、ずっと新しい明時代の糸印まで混じっている。
このようなものしかなくて、よくあれだけちゃんとした篆刻制作ができたものだ。実物の印ではなく、中国渡りの印譜を参考にしたのだろう。
・天明5年(1785年):紀州藩士の「井田敬之」が著した「後漢金印図章」という著作が天明5年に刊行されている。その序文冒頭(漢文)を翻訳してみる。当時秦漢古銅印などみることができず、印譜で研究していたことがわかる。
「私は若い頃から印癖があった。宋元明清諸家の説を極力学んだ。1印譜を得る毎に、印譜をうやうやしくひもとくことは、古人と堂上で対談しているような気持ちであり、睡眠や食事を忘れて熱中した。しかし、未だに本物の古印を見ることができないのを、常々 残念に思っていた。天明甲辰仲春23日、、以下略」
・明治15年: 明治初期でも、秦漢古銅印は、ほとんど輸入されていなかった。なぜなら、1880年、楊守敬が日本の知識人書家に拓本古印などを売ったときに、楊氏家蔵銅印譜という印譜も作成している。
これには、確かに真正な漢時代の銅印も含まれているが、あまり感心しない鑑賞価値の低い印ばかりである。こういうものでも当時の日本人は珍重し喜んで購入したのであろう。この銅印は、その後 郷・純三男:松石山房に帰したが関東大震災で失われたという。
1910年ごろ:
京大の大物学者・京都国立博物館館長:神田喜一郎博士の話では、
>神田喜一郎「京都に本当に一体秦漢の印などの実物のきたのは山田永年さんの漢騎都尉印ですな。」ref.
ref. 京都国立博物館編輯、篆刻家 園田湖城、平成23年
山田永年(1844-1913)
1910年ごろ:
園田湖城先生「大正初年にある人が新しく渡来した中国古印を2つか3つばかり手に入れたとの話をきいて、頭を下げて見せてもらいにいったが、持主が威張り帰っていて屈辱を憶えた」
この持主:山田永年かもしれない。
だから、古銅印研究・収集やってた人々、たとえば太田孝太郎氏は真物説であり、
そうでない文献学者の
三浦佑之氏などは贋作説に傾くのである。
なお現在、日本には、古代の金印は、他に少なくとも2点ある。京都の藤井有鄰館にある魏の「崇徳侯印」「関中侯印」である。藤井有鄰館は、日本最大の中国古銅印のコレクションをもつ博物館である。この金印もたぶん大正時代の購入だろう。
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陳介祺の蔵書印
http://reijibook.exblog.jp/30578089/
2023-12-28T06:37:00+09:00
2023-12-28T07:26:50+09:00
2023-12-28T06:37:04+09:00
reijiyam
蔵書
山東の青銅器・考古品の大蒐集家 陳 介祺(ちん かいき、Chen Jieqi、1813年 - 1884年)の蔵書印には、どうも逝去後に、家人や後人が、家にあった拓本や印譜を売却するときに押したのではないか?
とおもわれる偽印が結構あるようである。
その場合、陳 介祺 の本物の印を使った場合もあるだろうし、
中華民国のころに原印をもとにでっちあげた別の印を押したのではないかと思うものがある。
偽印だから拓本や印譜がダメなものというわけではない。拓本や印譜は本物だが箔付けのために、偽印を押したのではないかと、おもわれるものもかなりある。
陳 介祺の印を制作した王石経の印譜:瓶古斎印譜を基準に出来る。
上の一番目の印は真だと思う。左が瓶古斎印譜の印影。
おそらく真印とおもわれる漢時代の燈火器 の銘文拓本に押されたもの。これは満州貴族が所有していた拓本で、相当信頼できる。
2番目の例では、下の「海濱病史」はほとんど一致しているが、上の「ホ斎蔵石」は違うようだ。左が瓶古斎印譜の印影。
3番目の例では2個とも違っている。左が瓶古斎印譜の印影。
しかしながら、押された拓本それ自体はどちらも立派なものにみえる。
勿論、なかには、印も本体も箸にも棒にもかからないものもあるだろう。
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李文田跋は一時大阪にあった
http://reijibook.exblog.jp/30566464/
2023-12-26T08:11:00+09:00
2023-12-26T08:26:11+09:00
2023-12-26T08:11:16+09:00
reijiyam
蔵書
上イメージ::李文田の跋(ネットにあがっていた影印本から)
蘭亭偽作説のキーになった李文田の跋を含む汪中本定武蘭亭序の現物が大阪にあったことがあるらしい。どこかで読んだはずだと思っていたら、中央公論社 書道芸術にはさまった月報にあった。
こういう体験談は、忘れさられることが多いので、ここで引用しておくのは無駄ではないだろう。「国府の要人」というのは収集家でもあった藝珍堂 王世杰ではなかったか?? と推察している。なぜなら、東京国立博物館にある高島コレクションの宋拓 許彦先 本蘭亭序に王世杰 の印があるからで、王世杰が定武蘭亭に一時関心があり、その後関心が薄れ手放したのが推察されるからである。
また、興味深いことに、この許彦先本と 汪中本は同石ではないか?と思われるところがある。
書道芸術 豪華普及版 月報1
第一巻付録 昭和54年9月。中央公論社
今井凌雪 郭沫若氏の蘭亭偽物説について
>
私の友人の中国人が先年顔を見るたびに蘭亭はいらないかという。わたくしは「蘭亭は太普遍(タイプーピエン)だ」といって、よい加減にあしらっていた。そのうちに電話がかかってきて、前に言っていた蘭亭を香港からもってきたから見に来いという。早速出かけて見せてもらったのだが、これが何と前記の李文田の跋のある汪中旧蔵の定武蘭亭であった。はじめに汪中の像が書かれてあり、跋文もともに覆刻した拓本と一つの箱に入っている。びっくりして、その伝来を聞いたら、国府のさる要人から手に入れたもので売ってもよいという。無理してでも手に入れようと思っていろいろ聞いたが、わたくしなどではどうにもならぬ値を考えているらしい。何しろ入手したときに1万銀元だったそうである。
この文を依頼されて、もう一度、李文田の跋だけでも写真にと思って先日出かけたら、もう今は台湾へ持って行って大阪にはないという。翰墨因縁というものはこんなものかとがっかりしながら帰ってきた。
>
郭沫若氏の蘭亭偽物説について、から引用
>
本月報は、昭和50年4月初版刊行時に若干の補正を加えたものです。
>]]>
陳介祺の書画コレクション
http://reijibook.exblog.jp/30531389/
2023-12-19T03:28:00+09:00
2023-12-19T17:11:16+09:00
2023-12-19T03:28:45+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
喬松平遠図 澄懐堂文庫
には 次の題簽がついているそうです(ref1)。
宋李營邱喬松平遠圖
怡邸明善堂藏眞本
西泉庚辰得于京師海王村
ホ(竹+甫+皿)齋審定竝題
「ホ(竹+甫+皿)齋」(朱文長方印)
[
[怡邸明善堂]ってのは、清朝皇族の怡親王邸宅のこと。
「海王村」というのは北京の古書店骨董街である瑠璃厰のこと。
「王西泉」は、篆刻家 王石経のこと。「庚辰」は1880年です。
「ホ(竹+甫+皿)齋」は山東の青銅器・考古品の大蒐集家 陳 介祺(ちん かいき、Chen Jieqi、1813年 - 1884年)のこと。毛公鼎ももっていた人です。 陳介祺の著書が印刷されたのが中華民国時代だったのが多かったせいか、「民国の陳介祺」とか呼ばれてまちがわれていることが多いんですが、1884年逝去ですからね。完全な間違いです。
王石経は陳介祺の印を彫っていますので、おそらく地方都市にひっこんで陳介祺のために、代理人として買い付けなども行っていたのだろうと思います。
陳 介祺の手紙集(ref2)のなかに呉雲(1811-1883)への手紙も何通もあるのですが、
同治11年9月4日の長い手紙の中に、自蔵の書画をリストして自慢しています。いうまでもなく、喬松平遠図は入っていません。これを買う何年も前のリストですからね。
これみると、意外と日本にきているものが多いんですね。
そのリストを転記してみます。
************
唐王維伏生授経図巻 大阪市立美術館 旧阿部コレクション
宋李唐小江南春巻
文与可竹三(一無款)(極思得東坡、仲圭、禹玉竹)
宋元執扇集錦。
朱文公札巻。(真跡)
黄山谷書巻。(伏波神祠詩巻)
馬和之畫毛詩、(高宗書)
元 王叔明楽志論巻、天香深処巻 夏山高隠軸
趙蘭倪竹合巻
雲林小景 二軸
方方壷江山秋興巻
趙松雪馬軸
*************
わかる範囲で各作品を追ってみます。
唐王維伏生授経図巻は、大阪市立美術館 旧阿部コレクション
宋元執扇集錦
ってのは、
名画集冊という名前で李佐賢の「書画鑑影」巻十にのっているものじゃないか?
名賢寶絵集冊という名前で李佐賢の「書画鑑影」巻十二にのっているものじゃないか?
よくわかりません。。どちらも「陳寿卿」所蔵と記載されています。
黄山谷 伏波神祠詩巻は、 永青文庫にあります。今回 北宋書画精華展にもでてました。
馬和之畫毛詩、(高宗書) これは複数あるこの手の絵巻のなかで最優とされるもので、 藤井斉成会有りん館 にあります。
王蒙の「天香深処」 という画題の絵は複数遺っていますが、天香深処「巻」なので、巻子です。
近年 クリスティーズで売り立てられたこれが 箱に 陳氏の銘文があるそうなので、該当物件だと思います。
王蒙 天香深処
https://www.christies.com/zh/lot/lot-6112128
2016年 クリティーズ
一方、日本で昭和初期から知られていた「王蒙の 天香深処図」は縦長の掛け軸で、もと斎藤董庵のものだったので図録にも掲載されていてため知られていたようです。
2018年 NY サザビーズででてました。
https://www.sothebys.com/zh/auctions/ecatalogue/2018/fine-chinese-paintings-and-calligraphy-n09907/lot.607.html
Stephen Junkunc, III (d. 1978) 旧蔵
2点とも、それほど良いものにはみえません。
王蒙の 夏山高隠軸 はおそらく、現在、北京故宮博物院にある軸でしょう。
https://minghuaji.dpm.org.cn/paint/detail?id=7cf073857d4e46c89b499b19c99a0115
ただ、そっくりの軸が、もう一つ、張大千寄贈というもので、台北 国立故宮博物院にもあります。
贋作者としての張大千を考えると、どうも信用がおちるので、あまり展示されないようです。
でも、そうとう精緻な絵ですね。
https://digitalarchive.npm.gov.tw/Painting/Content?pid=19382&Dept=P
趙蘭倪竹合巻ってのは、
趙文敏倪高士合巻という名前で李佐賢の「書画鑑影」にのっているものですね。
李佐賢の「書画鑑影」は、道光同治時代の貴族富豪の収集を記録したもののようです。
李佐賢は陳介祺と同じ山東省出身ですし、古代貨幣蒐集もやっていて研究書もありますから、陳介祺と交友あったみたいですね。「書画鑑影」にも「陳寿卿」所蔵と記載されているものがあります。
Ref1. 關西九館所藏 中國書畫録I、関西中国書画コレクション研究会 2013
https://kancol.jp/img/file4.pdf
REF2, 秦前文字之語、 斉魯書社、1991
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喬松平遠図のサイン
http://reijibook.exblog.jp/30499139/
2023-11-26T09:14:00+09:00
2023-11-26T09:17:38+09:00
2023-11-26T09:14:12+09:00
reijiyam
ニュースとエッセイ
北宋書画精華 展で、わりと良かった喬松平遠図(澄懐堂美術館)だが、宣伝動画で「李成という落款がある」と名言していたし、図録解説にも「左下に李成の偽款がある」と書いてあったので、本当にあるのかどうか疑問に思って
大和文華館 宋代の絵画 特別展 のときに購入した大きな ポスターを細かくみたが、、
見つから無い。
よほど小さくて紛れているのか? それなら范寛の谿山行旅図のサイン(下イメージ)のような隠し落款でかえって本物くさいな。あるいは落款といっても小さな印影でよく読めないのではないか?? と思った。
一応、ポスターから作成した左下の部分画像を上にあげておく。
絵の実物自体は汚れや補修も多いが、郭煕風の描き方が目立つなかなかの佳作だと思う。
前は元?と思っていたが、今回みると宋でよさそうだ。宋の絵画というと残存が少ないので、どうしても小品を拾い集めるような感じになるのだが、当時だって大作は多かったはずだ。ただ避難が難しく残っていないだけである。
范寛の谿山行旅図 初め台北には大きな宋画がいくらか残っているのだから。
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王秀仁 拓本
http://reijibook.exblog.jp/30489308/
2023-11-12T14:14:00+09:00
2023-11-12T14:15:03+09:00
2023-11-12T14:14:04+09:00
reijiyam
蔵書
梅舒適コレクションの丁丑劫余印存 は王秀仁旧蔵本である。
王秀仁は、西レイ八家印存の制作で、名前が残っているようだ。画家収集家の呉湖帆と関係が深かったようだ。しかし
当時、そうとうひっぱりだこであちこちで拓本などを制作していたようである。
葉恭しゃく のところで毛公鼎 拓本も制作している。これは全形を原大に一紙に印刷したものからとった印影で
「王秀仁手拓金石文字」
貧架にある爵の拓本は「爵」としては例外的なくらい長文銘のものである。一応「三代吉金文存」収録銘なので、真っ赤な偽物というわけではないだろう。
この器形拓本に別に取った銘拓本を貼り付けたものがこれなんだが、やはり王秀仁の制作であり
「秀仁手拓」となっている。
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シューマン夫妻の肖像画
http://reijibook.exblog.jp/30483042/
2023-11-04T03:35:00+09:00
2023-11-04T03:35:50+09:00
2023-11-04T03:35:50+09:00
reijiyam
蔵書
ロンドン1985年8月のAPOLLO誌,
に広告で、、
エディンバラの画廊 Daniel Shackleton
で、
ロベルト・シューマン クララ・シューマン の肖像が出てました。
平板な肖像画ですが、一流画家でないから、逆に、画家の個性なしで、像主の顔がでているかもしれませんね。
Jacobus ven den Berg 1840 板に油彩 40x30cm
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歴代帝王図巻の原状 続
http://reijibook.exblog.jp/30452437/
2023-10-01T07:58:00+09:00
2023-10-01T08:12:23+09:00
2023-10-01T07:58:00+09:00
reijiyam
蔵書
ボストン美術館の、歴代帝王図巻
https://www.mfa.org/collections/object/the-thirteen-emperors-29071
これは、よく教科書にも隋の帝王の肖像画として使われることが多い絵画だが、いろいろ問題があるので、
1917年、上海 商務印書館 刊行 の モノクロ コロタイプ 複製から、続いて画像を紹介する。
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歴代帝王図巻の原状
http://reijibook.exblog.jp/30451671/
2023-09-30T08:14:00+09:00
2023-10-02T06:13:47+09:00
2023-09-30T08:14:59+09:00
reijiyam
蔵書
ボストン美術館の、歴代帝王図巻
https://www.mfa.org/collections/object/the-thirteen-emperors-29071
これは、よく教科書にも隋の帝王の肖像画として使われることが多い絵画だが、いろいろ問題がある。
まず現在は彩色が強い絵巻物だが、中華民国初期までは、実は色があまりない白描に近い作品だったようである。
当時、モノクロで印刷された画集が出版されている。それをみると、現在はっきりみえる衣装の模様などほとんどない。あれは皆 100年以内のつくりものだったのか、と唖然とする。1917年当時のカラー写真はないし、カラー模写本もないようなので、このモノクロから想像するほかないのだが、ちょっとこれはひどすぎる加筆ではないかと思う。
実は、ボストンのものとこの影印とは別本かとも思ったが絹の痛んだ箇所や布目がそっくりなので、同一物であることは間違いない。
五馬図巻は、モノクロ写真しかなく墨一色の白描だとばかりおもわれていたが、最近現物が再出現したら、淡彩もあったので驚かれた。その一方、帝王図は、昔の教科書はモノクロ(ただし補彩・加筆後の状態でのモノクロ写真、たぶん昭和3年 大塚巧芸社のものがおおもと)だったが、二〇世紀末ぐらいから、彩色図版が普及していた。
このため、実はもともと白描に近いものであったことが忘れさられてしまっているようだ。最近、中国で出版されたものは、ひどいことに、なんかおかしな絵が追加されており、研究者・鑑賞者を乱すものである。
この古いモノクロ図版は、 戦後の1982年刊行の「古帝王図」 人民美術出版社、北京でも翻印してあるので、みることができないわけでもないのだが、この本は、加筆 補彩のことを明記してないので、なんだかよくわからない矛盾した本になっている。
ただ、そうはいっても、この歴代帝王図は、敦煌壁画の維摩経変相の帝王図、北魏の龍門石窟の帝王行列の浮き彫りなどと行列や衣装、おつきの姿勢なども類似しているので、帝王図像としては古い図像を伝えるもので、宋以後にでっちあげた図像ではないようである。
そこで、最も古い加筆前の状態の影印から、全画像を紹介してみたい。まず六枚。あとは続篇で。
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ヴィンクラーの発見
http://reijibook.exblog.jp/30437536/
2023-09-10T11:20:00+09:00
2023-09-10T11:33:32+09:00
2023-09-10T11:20:38+09:00
reijiyam
蔵書
フーゴ・ヴィンクラー(Hugo Winckler, 1863年7月4日 - 1913年4月19日)がボガズキョイ村近くのハットゥシャの遺跡で、ヒッタイト王都の文書館を発掘し1万点といわれる粘土板文書を発見した。
その中で特に有名なのが、1906年8月20日に発見された、エジプトのファラオ ラムセス二世とヒッタイト大王ハットシャリ三世の平和条約の粘土板写本だった。これは、当時の国際語アッカド語の楔形文字文書だったので、ウィンクラーはその場で読むことができた。そして、この平和条約の内容そのものは、エジプトのルクソールの神殿の壁にエジプト語+ヒエログリフで彫り込まれていたのでシャンポリオンのノートにもあり、シャンポリオンの弟子ロッセリーニによって現代語翻訳までされていて、学者にはとっくに知られていたのである。
その周知の条約のアッカド語写本がハットゥシャの文書庫からでてきたとき、ウインクラーがいかに驚いたか、思い半ばにすぎるところがある。
対談本ヒッタイトに魅せられて(ref1) では大村先生は、
「おそらくヴィンクラー自身にとっても腰が抜けるほどの驚きだったと思いますよ」
と話しているが、古い本(ref2 イメージ)から引用しよう。
>>
「このような文書を眺めた時のわたしの感慨は特殊なものであった。わたしがブラクの博物館でテル・エル・アマルナのアルザワ書簡に接したのは18年前のことである。その時わたしはラメセスの条約もまたもとは楔形文字によって書かれたものらしいという推測をたてたが、いまやその交換文書をこの手にしているのだ・・・・・いとも美しい楔形文字で立派なバビロニア語の!」彼はこの奇遇をアラビア夜話に比し、一人の人間の一生のうちには滅多にない事情であると深い感慨をこめて語っている。
>>
ここでアルザワ書簡に言及しているのは、アルザワ書簡は、ヒッタイト語+楔形文字で書かれたものだからだ。
なお、この発掘時点ではまだヒッタイト語はほとんど読めていない。楔形文字だから音はわかるが、言語として読めないのだ。英語はしらないが、アルファベットは読めるという程度の状況だった。ただ、ハットゥシャの文書庫にはいろいろな文字言語の文書があり「アッカド語+楔形文字」のものもかなりあった。この平和条約文書の写本もその一つである。
ref1 ヒッタイトに魅せられて 考古学者に漫画家が質問!!
著者 大村 幸弘 (著),篠原 千絵 (著)
山川出版社 2022年11月
https://www.yamakawa.co.jp/product/15190
REF2 高津・関根「古代文字の解読」
https://www.iwanami.co.jp/book/b261640.html]]>
もとになったブリューゲル版画
http://reijibook.exblog.jp/30436676/
2023-09-09T07:31:00+09:00
2023-09-09T07:57:18+09:00
2023-09-09T07:31:26+09:00
reijiyam
蔵書
【絵で見る昔のトンデモ医療】恐怖!頭から「石」を取り出す手術とは?【インカ帝国とも関係!?ヒエロニムス・ボス「愚者の石の切除」を山田五郎 (該当箇所へのタイムスタンプ付き)
https://youtu.be/PXch8tFuNfk?t=1040
で、「もとになった ブリューゲル版画がみあたらない」
ということですが、上の版画がそれでしょう。
Louis Lebeerのカタログ・レゾネ(1969)の83番です。1972年鎌倉でのブリューゲル版画展で79番、鎌倉のカタログに図版があります。ただ、ルベール自身はブリューゲル原画かどうかは怪しいとしていますね。なお、トレパネーションは、他のブリューゲル版画にもでてきます(下)マレヘムの魔女の右下部分拡大
Lebeer, Louis. Catalogue Raisonne Des Estampes De Bruegel L'ancien (1969)
神奈川近代美術館、ブリューゲル版画展 1972年
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