この虫喰いが約9cmで周期的に現れている。これは、歴史のある時点で約9÷3.14= 約3cmの径の巻子であったことを示している。この原本を最後にみて、記録しているのは、阮元であろう(石きょう随筆)。彼は古模本だといっている。拓本が合装されていたらしい。その後、どうも1945年、満州国宮廷崩壊の跡、亡失したらしい。ただ、消滅したというものがまた出現することもあるので未来に希望を持ちたい気がする。 さて、この虫喰いは歴史の何時の時点でついたのだろう。どの時点で直径3cmの巻子だったのだろうか? 明時代嘉靖年間に真賞斎帖に萬歳通天進帖を刻したとき、刻した細線は虫喰いの跡そのものではなかった。萬歳通天進帖そのものが模写本であるから、唐時代に原本を模写したとき、原本にあった虫喰いを細線で写した。その細線を真賞斎帖に刻したわけである。積時帖の虫喰い表現もひょっとしたら、古模本自体にあった細線だったのかもしれない。もし、そうならば唐時代の原本は直径3cmの巻子であったことになる。 しかし古模本が現実に虫喰っていたのかもしれない。跋で、呉廷は「真跡だ」といっている。どうもこの人は何でも真跡だと特筆大書する傾向があるので、あまり信用がおけない人である。ただ、こうも考えられる。もし、虫喰いが現実のものではなく、描いたものであったとしたら、いくら呉廷でも真跡だというだろうか? そう考えると、余清斎帖に刻されたのは現実の虫喰い孔だということになり、虫喰いのできた時期は、ずっと下って、唐代に模本ができたときから、明代中期までの間ということになる。 ところで、満州にあった積時帖巻子がこの太さであった可能性はあるだろうか?それはまずありえないと思う。余清斎帖に刻した時点の前後に穴があったとしたら、穴を塞いで表装をやりなおしているだろうからだ。 ところで、書跡名品双刊、雑誌「墨」碑法帖入門号にのっている積時帖と比較すると、どうも迫力が乏しい。おかしいと思ってサイズを比較したら、拓本のほうが少し小さかった。模刻ではないとすると、サイズを大きくして印刷しているのである。書学院本は確かに、清初拓というべき名品なので、字画もはっきりしているし、先述の細線もずっと明確である。 ただ、拡大するときは、大して違っていなくても一言コメントが欲しかった思う。実物と比較してみる機会はめったにないのだから。
by reijiyam
| 2007-12-02 11:55
| 蔵書
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