ちょっと難しい問題を書いてみる。これは入門に書くことではないかもしれない。そうはいっても、ここを突破しないと近代までつながらないんだから、しょうがない。 清朝の正統派 アカデミズムを造ったのは四王呉惲だといわれている。 四王呉惲というのは、王時敏,王鑑,王キ (王石谷) ,王原祁 (おうげんき) ,呉歴,惲寿平 (うんじゅへい) の6人である。上の絵は、王時敏,王鑑,王キ (王石谷) ,呉歴の作品である。 この四王呉惲は、実は皆、明末清初の人々で、清朝にしか生きていないという人はだれもいない。明が滅んだとき、王時敏は52歳,王鑑は46歳,王キ (王石谷)は12歳 ,呉歴は12歳,惲寿平は11歳、最年少の王原祁でさえ、1年ほど明朝を生きている。明末清初画家として有名な八大山人は18歳だったのだから王時敏,王鑑の息子の世代である。明王朝王族出身のいわゆる遺民画家石濤と比較してみる。石濤は、王原祁よりは年長だが惲寿平より若く、王原祁との合作まである。 画風の違いから、いわゆる明末清初画家と四王呉惲を分け、四王呉惲を清朝盛期のほうに引きつけて考えがちであるが、画風の継承関係はともかく時代的には全く間違いで、すべて同時代の活動だと考えなければならない。 次に画風については、「董其昌に従って古画を学び模倣し新味なし」というような批評が多いけれど、いったい、彼らよりも古い絵画で彼らのような絵画があったであろうか?? 確かに、古画をパラフレーズしたものは多いし、XXを模倣したというサインがあるものは多いのだが、画風でいうと全く別物で、直接的な先祖を指摘することは困難である。ただ、その後、清末中華民国時期まで、この四王呉惲の様式が膨大なエピゴーネンを生み、無難で正統な形式になり、重量トンで測ったほうがいいくらいの多量の似たり寄ったりの絵画が生まれたので、つまらない平凡などこにでもある中国絵画様式にみえるのである。ただ、彼らが標準化したのは、山水画の世界だけである。それ以外の分野では、惲寿平様式が花卉画で流行ったが、それでも標準化したというほどではなかった。ずっと後世の、雍正乾隆時代の揚州八怪や清末の海上派が主として山水画以外に新味を出したのも、こういう権威の圧力があったからだろう。 私はこれを「 新しい平凡」と呼びたいと思う。一種の折衷様式であって、それが正統になる過程や立場は、日本の狩野探幽による狩野派の覇権確立と似ているようにも思う。狩野探幽と時代もほぼ同じなのは不思議というほかはない。また、さんざん悪口をいわれてきた19世紀フランスのアカデミックなサロン画家の立場にも似ている。 狩野派は血縁と養子縁組と師匠弟子関係で組織を作ってきたが、四王呉惲はどうだろうか? 王時敏と王鑑は地縁、王キ (王石谷) と呉歴と惲寿平 (うんじゅへい)は殆ど同じ年齢で交流がある。 王原祁は王時敏の孫だ。ここだけは血縁ね。王キ (王石谷) の工房は康煕帝の御用画家になって権威になったし、 王原祁は宮廷で高官になったから、これは権威そのもの。この王原祁の画風だけが董其昌にいやに似ているのは偶然ではないだろう。 四王呉惲は、古画の模倣の元凶のようにいわれているが、例えば下の王鑑の「倣李成」は、現代考えている李成のイメージからははるかに遠い。つまり当時既に李成の画風は解らなくなっていたか、倣李成というのは口実だけで勝手に描いてよいと思ったのか、そのどちらかであろう。 ただ、こういう模倣XXという看板が、後世に、単なる模写を作品あつかいしたり贋物つくりに正統性を与えたりして、山水画をどうしようもない沈滞におとしいれてしまったことも事実だろう。
by reijiyam
| 2015-05-24 21:29
| 中国絵画入門
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