玲児の中国絵画入門 16 明末清初の爆発的な多様化 その2



明末清初の絵画を語るとき、

 八大山人などの明の王族の末や、明の官吏で清朝になって野へ下った人などを取り上げて、「画に清朝への抵抗を表現した」だのと解説し、挙げ句の果てには「画家たちが抵抗運動を語り合った」などと想像して観てきたように語る人が少なくない。

 そりゃ、文字通り政治活動をやった人もいるかもしれないし、明が滅んだとき自殺した倪元ロのような人もいる。また、李自成が北京を落としたとき餓死した崔子忠のような、動乱の犠牲になった画家もいる。反清の軍を率いて軍事行動をして破れた人もいる。

 しかしながら、もっともよく語られる八大山人にしてからが、雍正末乾隆初めのオーソドックスな画史「國朝画徴録」のトップに挙げられて絶賛されているのである。下に原本イメージではっきり示す。

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 政治活動への弾圧が厳しかったといわれる雍正帝時代に書かれ出版された作品でトップに出ている画家が反清の活動家なんてことはありえないでしょう。そんな本ならとっくに禁書になっている。

明の王族であった八大山人は康煕17年ごろ、臨川の役所・邸宅に招かれて事実上監視下・軟禁におかれた。これは、そのすぐ前に三藩の乱の大戦争があったからでしょう。明王族を擁立して反乱されたら困りますからねえ。八大山人の軟禁と三藩の乱を関係させて観ることができないなんておかしいよなあ。八大山人の故郷でずっといてた南昌は三藩の乱では最前線だった。


 結局、明の王族の末裔の画家=清朝で弾圧監視される=反抗の意思が絵画に反映される という単純化された図式・先入観があるんだな。その背景に辛亥革命前後の「滅満興漢」の民族主義にのって、清初の画家で明の王族画家や明時代から画家やってた人のなかでそれらしい人々を反清政治活動家に仕立て上げたのでしょう。たぶん中華民国時代の知識人たちの誤解なんじゃないかな。

 おまけに1970年代にありがちな、
「芸術家は反体制でなければならない」「造反有理」「人民に奉仕する革命的心情のない芸術はダメ」などという先入観から、明時代から生きてきた画家や明王族末裔の画家を反清抵抗勢力にしてしまった。

一種の捏造ですね。

  明の王族の末裔で、優れた画家だった石濤(道濟)なんて、康煕帝に2度も拝謁しているし、満州人貴族をパトロンにしてましたしね。ちなみに石濤の絵画は明末清初というより後の揚州派の先駆という感じがある。揚州派の人で石濤を尊敬する人は多い。

   陳洪綬は、明滅亡後「悔遅」(遅かったのを悔やむ)と号をつけて、明滅亡に何もできなかったのを悔やんだ格好を示したが、それはかっこつけじゃないかなあ。もともと「無類の女好き」「酒好き」の人だったから、そんなの宣伝でしょ。


by reijiyam | 2015-04-27 10:32 | 中国絵画入門 | Comments(0)
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