徽宗皇帝 文會図  質問への回答

 書画記には、董其昌の箱書きがあった記録があり、董其昌は、陸大宰→ 胡宮保→ 項篤寿→ 厳嵩→ 政府没収→ 朱大尉→ 項子京 という伝世を記録してます。
 
e0071614_1634694.jpg 張丑『清河書画舫』燕字号 (巻六下 は特定の刊本の分け方です、古い版本には巻号はありません)には、
   「厳嵩が失脚して財産没収されたもののなかにあった。」としてありますから台北本と同じものでしょうし 文嘉が厳氏書画記にのせた「文會図」とも同じでしょう。

 その後、索額図->アーアルシープ->耿昭忠->耿嘉さ となっています。この伝世経路については
 Marshall Wu, A-er-shi-Pu and his painting Collection,
 Li Chu-Tsing ed. Artist and Patrons University of Washinntong Press. 1989 p61-74に所収

 ある時点で周文矩作品から徽宗皇帝作品ということになったのではないかと思います。徽宗皇帝画院で、古画から抜粋して模写した作品は、ボストン美術館の搗練図巻のものや遼寧の虢国夫人遊春図巻がありますから。そういう性格のモノだった可能性が大きいですね。はるか昔には「天水模周文矩文會図」というような題箋があったのかもしれません。
当方が納得したのは徽宗皇帝時代から既にかなり模本的性格があったのではないか、ということで、現在の画面の印象がなんとなく理解できたからです。

 ただ、古原宏伸さんのある論文(典拠は記憶がとんでいます)に 手巻型の文會図をあげて、もとは巻子本でそれをあの形にしたのかも、という推測もありました。

 耿昭忠は軍人職なのに、ヘンという感じもありますが、清末太平天国の乱で死んだ画家 湯雨生も将軍でしたからねえ。あまりこだわらなくてもいいのかもしれません。
by reijiyam | 2011-09-01 21:07 | ニュースとエッセイ | Comments(0)
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