ルーブル展 京都市立美術館  感想

 ラトゥール「聖ヨゼフと幼児キリスト」は意外とよかった。とくにキリストの右膝とサンダル、ヨゼフがもつドリルの木の握り手、床に転がる木屑がよい。
 一方、他のラトゥール作品にもみられることだが、奇妙な手の形、肉体の解剖学的構造の無視、中心部分のみ精密に描いて周囲を手抜きする傾向はみうけられる。できのレベルからいうと、「聖ヨゼフの前に現れる天使」より落ちるが充分真跡といってよいのではなかろうか。
 キリストの顎が二重顎のようにみえるのは気のせいだろうか? 蝋燭を支える右手がどうみても左手より大きく、しかもその指の形がかなりおかしく蝋燭をささえる通常の手指の曲げ方ではない、これはレンヌの聖誕でミイラ巻にされた赤子キリストをささえる聖母マリアの妙な指の形にもみえることである。聖ヨゼフの体は、まるで胴体が著しく短いようにみえ、足が胸に直接ついているような感じすらする。これはこの空間を構成するために通常の解剖学的構図を犠牲にしているようにみえる。
 色は全体にオレンジがかっていているがニスの劣化のせいとは思えず、もともとの色ではないかと思う。額縁は安っぽいもので新しい19-20世紀のものだと思った。
 フェルメールの「レースを編む女」は、まあ普通のもので、私としてはもとBEITコレクションのほうが印象が良かった。ただ、保存状態がかなりよいと思った。背景が塗り直されてはいず、原初のものを残しているようにみえるからである。
 ルナンの農民の家族は、ちょっと切り縮められているのではないかと思った、いまでも充分大きな絵だがどうもきゅうくつだ。ロンドンナショナルギャラリーのルナン作のほうがよいと思った。
 思わぬ佳作としては、ヨールダンスの四福音記者がある。肖像群としては上々のもので、肉体が弱いヨールダンスの作品としては例外的によいし、左下の本の描写も見事である。ただ、マルコとルカ(またはマタイ)である二人の老人のモデルが同じなのは残念だ。
 ヤン=ブリューゲル工房作とされる「火」は錯綜した構図でみとおしが悪いが、ミラノのアンブロジアーナにある真作の「火のアレゴリー」(inv.68)と酷似している。アトリエでのレプリカか?。 主題的には貪欲のアレゴリーのようにもみえる。小品ながらオスターデの「窓辺で酒を飲む男」も悪くはない。
 フランス=ハルスの「リュートもった道化師」は標準作、同じようなまあそんなものかという印象をもつものに、ヘリット=ダウの「歯をぬかれる男」クロード=ロラン「クリュイセスを父親のもとに返すオデッセウス」バテルの「ナイル川にモーゼを遺棄するヨクベト」がある。
 カルロ=ドルチの受胎告知二作セットは、西洋美術館の「悲しみの聖母」におよばず、ルーベンスの作は手抜きがめだつ。レンブラントの自画像はなんかやけにフランス風にみえる。ドイツやウイーンにあるラファエロがやけにゲルマン風だったりするのと同じく輸出商品であるようなことはないのだろうか? 
 フランケンの花輪に囲まれた聖母子ではグリザイユはみどころがある。上部数cmが切断されているのが残念。花輪は別の画家の手にようるもののようにみえるが、ダニエル=セーヘルスほど上手ではない。
 ムリーリョはサイズが大きいほどできがいいという理論をプラドにいったとき思いつき、その後もさほど誤りがないと思っている。この半円形の絵はサイズが足りないのかあまりよくない。やはり3mは欲しいところか?
 静物画は総じてよくない。コールテの五つの貝殻など遠くからみると佳作のようにみえるが近くでみても質感がなんら感じられない、他も観るに足りないものばかりだ。風景画も前述のロランやバテルを除くと、平凡なものだらけで、ロイスダールなど言語道断な代物である。
 おみやげとしては、ラトゥールのクリアファイルを買った。透明なせいかあまりよくない額絵以上に雰囲気がある上実用的でもある。
by reijiyam | 2009-07-21 08:23 | ニュースとエッセイ | Comments(0)
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